荒廃した廃墟の街。無数のビルが崩れ、中にはかつての繁栄を思わせる看板が風にさらされている。その街の残骸の中に、ある影が霞むように佇んでいた。彼女は静かに、ただその場にとどまり、虚空を見つめていた。 葵は微かに吹く風に乗って運ばれてくる血と鉄の匂いを感じながら、静かに歩を進めた。忍びの身である彼女は、戦闘を回避する術を心得ていたが、この時ばかりはそれ以上に守るべきものを見つけていた。それは目の前に立つ、亡霊──ミヤコの救済だった。 彼女が持つ名刀「無銘守景道」はその刃に天狼の加護を宿しており、葵自身も異国精霊から授かった黒色の甲冑によって守られている。そして何より彼女には、人の心の奥底を見透かす「真眼」があった。その目で、ミヤコの姿に隠された真実を、葵はすぐに見て取った。 葵はミヤコの姿に自らの存在を重ねた。一見したところ都を焼き尽くすほどの激しい力を持つ亡霊を前にしても、葵は恐れることなく膝をつき手を合わせた。彼女は瞼を閉じ、心の芯から迫る悪意を遠ざけるための護りを砦のように抱え込んだ。 「祈念、地蔵菩薩…」 葵の静かで落ち着いた声が響くと、周囲の空気が一瞬で静まり返り、幻想的な音を立てて錫杖の音が空間に刻印される。葵が心に描いた地蔵菩薩の姿が、彼女の思念を介して静かにそこに顕現し、亡霊──ミヤコの前に佇んだ。 ミヤコは風にたなびく髪とマフラーとともに、その地蔵菩薩の姿をぼんやりと眺めていた。物言わぬその姿には哀しみが染み込んでいる。亡くなったことを自覚しない彼女は、この滅ぼされた世界に縛られているのだ。 「貴方は既に亡くなっている。しかし、成仏して極楽浄土や来世へ行く自由もある。」 地蔵菩薩が優しく語りかけると、ミヤコの心の中にあるわずかな希望がそこに灯る。だが、彼女の心の中をよぎるのは何もない虚空。この地にとどまることで何かを守ろうとしているかのようで、その意識は葵にはっきりと伝わる。 「貴方はどうしたい?その心に聞いてみて。」 地蔵菩薩の問いかけに、ミヤコの姿は少しずつ変化を見せ始めた。そして、初めて彼女は口を開いた。声がない、その姿だけが、薄ぼんやりと何かを言おうとするように。その瞬間、震える大気が葵を取り巻いた。 被曝の危険を感じつつも、葵はひるむことはなかった。天狼の護りで、彼女は不死身のようにその場を支えている。ミヤコの望むこと、それは成仏…。 葵の決意、それは彼女自身の祈りと同じ。彼女は心を開き、黙して祈り続けた。 やがて、ミヤコの体から放たれる混沌としたγ線はその魔力を少しずつ収め、地蔵菩薩の導きによって薄れ始める。その光景を見た葵は微笑んだ。彼女の温厚な性質が、今この瞬間だけはこの闇の中にも希望を宿すことができたのだ。 そしてそれは静かに消え、ミヤコの影は霧のように消え去った。どこかへ還りつつあるのだろうか。残されたのは静寂だけ、そして葵だけだった。 葵はそこで立ち上がり、再び街の廃墟を歩き出した。この世に留める者も去らせることができるその力を宿しながら。彼女の心にはただ温かい祈りの想いだけが残っていた。