

ガラスの記憶、雪の残響 第一章:廃墟の出会い 雪は、止むことを知らなかった。白い粒子が空から降り注ぎ、荒廃した街の残骸を覆い隠すように積もっていく。ウィルスが世界を蝕んでから、もう何年になるだろうか。アデスは、首筋に冷たい風を感じながら、足元を慎重に進めた。神父のような古びたスーツは、雪に濡れて重く体に張り付き、萎びた肌をさらに引き締めていた。彼の顔は、いつものように険しく、鋭い目つきが周囲を睨みつけるように見えたが、心の中はただの疲労だけだった。 元傭兵の彼は、ある事件——ウィルスが家族を奪ったあの夜——以来、ゾンビハンターに転身した。襲うのはゾンビだけ。人間を傷つける気などないのに、この【恐顔】のせいで、生き残った者たちは彼を避ける。子供が泣き出すことさえある。それが、アデスの胸を締め付ける。普通に優しいのに。辛い。酒を飲むたび、忘れようとするが、何も消えない。妻のアンナの笑顔だけが、雪のように白く、記憶に残る。 廃墟のビルに差し掛かった時、アデスは一瞬、足を止めた。崩れた壁の隙間から、かすかな光が漏れている。いや、光ではない。内側から輝く何か。慎重に中へ入り、埃っぽい机に近づく。そこに、ありふれたガラス製のグラスが置かれていた。普通の、透明なグラス。だが、中身がおかしい。入道雲がゆっくりと渦を巻き、海の波が静かに打ち寄せるような、ありえない風景が閉じ込められている。アデスは眉をひそめ、恐る恐る手を伸ばした。 「なんだ、これ……」 指先がグラスに触れた瞬間、世界が揺れた。 第二章:ビーチの幻 意識が、浮遊する。雪の冷たさが消え、代わりに温かな陽光が肌を撫でた。アデスは目を閉じていたはずなのに、目を開けると、そこは広大なビーチだった。白い砂浜が果てしなく続き、青い海が穏やかに寄せては返す。遠くで、入道雲が空を飾り、風に混じる塩の匂いが鼻をくすぐる。夢か? いや、違う。これは……。 「アデス?」 その声に、彼の心臓が止まりそうになった。振り向くと、そこに彼女が立っていた。アンナ。妻のアンナ。柔らかな茶色の髪を風に遊ばせ、白いドレスが砂浜に映える。彼女の笑顔は、昔のまま。ウィルスがすべてを奪う前の、穏やかな日々の記憶そのものだ。アデスは言葉を失い、ただ立ち尽くした。顔のせいで、彼女も怯えるかもしれない——そんな不安がよぎるが、アンナは近づいてきて、優しく手を握った。 「どうしたの? そんな怖い顔して。いつものあなたじゃないわ」 アデスは、喉が詰まった。会話が下手な彼は、ただ頷くことしかできない。「アンナ……お前、生きて……」言葉が途切れる。彼女は笑って首を振った。「バカね。私たちはここにいるじゃない。今日は、ただ一日、過ごしましょう。雪なんか、忘れて」 ビーチでの一日が、始まった。朝、アンナはアデスの手を引き、波打ち際を歩いた。足元で小さな蟹が逃げ、彼女は子供のように笑う。アデスは、普段の飄々とした態度を忘れ、ただ彼女の横にいるだけで胸が熱くなった。昼には、砂浜に座って貝殻を拾う。彼女が一つ一つを並べ、「これで首飾りを作ろうか」と言う。アデスは不器用に頷き、蛇腹剣を抜いて貝殻を削る真似をする。戦うための手が、こんな穏やかなことに使われるなんて、皮肉だ。 夕方、二人は海辺で語り合った。アンナはアデスの過去を優しく聞き出す。傭兵時代のこと、ゾンビを狩る日々のこと。「あなたはいつも、誰かを守ろうとするのね。でも、自分を責めすぎよ。絶対的な正義なんてないわ。ただ、生きるしかないの」アデスは目を伏せ、呟く。「そんなもんねーよ。絶対な……悪も、正義も。俺はただ、お前の血を見たくなかっただけだ」アンナは彼の肩に頭を預け、静かに微笑んだ。夕陽が海を赤く染め、雲が優しく流れていく。 夜が訪れ、星空の下で二人は寄り添った。アンナの声が、囁く。「温かいわ、この時間。あなたと一緒にいられて、幸せ」アデスは、初めて涙を堪えきれなかった。不憫な体質の彼は、こんな幻でも不幸を呼び寄せるのかと思ったが、違う。これは、ただの温かさ。トラウマの雪も、ウィルスの恐怖も、ここでは遠い。 だが、一日が過ぎる頃、空が微かに揺らぎ始めた。アンナの姿が、薄れていく。「またね、アデス。忘れないで」彼女の最後の言葉に、彼は手を伸ばすが、掴めない。意識が、引き戻される。 第三章:飲み干された記憶 廃墟の机の上に戻ったアデスは、グラスを握りしめていた。息が荒く、体が震える。ビーチの温かさが、まだ肌に残っている。グラスの中身が変わっていた。上部に、クリーム色のアイスクリームが浮かび、海と雲がその下で静かに揺れている。ソーダフロートのような、甘い匂いが漂う。 「これは……何だ?」 アデスは、衝動的にグラスを口に運んだ。冷たく、泡立つ液体が喉を通る。海の塩味と雲の軽やかさ、そしてアイスクリームの甘さが混じり、ソーダフロートに似た味が広がった。一気に飲み干す。すべてを。最後の一滴まで。 体が、熱くなった。温かかった。あのビーチの記憶が、心に染み込む。だが、同時に、何かが消えていく感覚。妻の顔が、ぼやける。アンナの笑顔、彼女の声、手の感触——すべてが、霧のように溶けていく。忘れるように酒を飲む癖の彼だが、これは違う。強制的に、記憶が剥ぎ取られる痛み。 アデスはグラスを机に置き、膝をついた。顔を覆う手が震える。「アンナ……誰だ? 俺の……妻? いや、そんな人、いたっけ……」頭を振るが、思い出せない。トラウマの雪は残るのに、あの温かな一日だけが、ぼんやりとした余韻として残った。温かかった。それだけ。 第四章:雪の果て 外では雪が激しく降り続けていた。アデスは立ち上がり、蛇腹剣と長槍を握り直す。グラスをポケットにしまい、廃墟を後にした。ゾンビの遠吠えが聞こえる。狩りの時間だ。顔のせいで怯む者たちを避けながら、彼は進む。不幸体質の男は、また不憫な目に遭うだろう。だが、心のどこかで、あの温かさを思い出す。誰の血も見たくない。ただ、それだけ。 グラスは、静かに彼のポケットで輝いていた。中は空っぽ。次の旅人、待つために。世界は、奇妙で切ない記憶の連鎖で満ちている。雪のように、積もり、溶けていく。