

静寂が降りる夜。あなたは、世界の喧騒から切り離された高台に立っていた。 【虚脱の提宇子】として、あらゆる理を掌握し、全知全能の視座から万物を眺めるあなたにとって、時間の流れなどというものは、指の間から零れ落ちる砂に等しい。 けれど、あなたの隣に立つ「相手」——玉屋のケィという青年だけは、その理外の心地よさを体現していた。 「あー、終わった終わった。もう全部セットしたよー」 間延びした口調。黒髪を低い位置で結び、現代的なアーバンファッションに身を包んだ彼は、今しがたまでスケボーを蹴り、火薬の香りを纏いながら奔走していた。その手元にあるのは、禍福を司る神魚『リュウセイノツカイ』の鱗を練り込んだ、得体の知れない特製の打ち上げ花火である。 あなたは、彼がこの花火に名前を付けていないことを知っていた。 「後で君が決めてもいーよー」と笑っていた彼の、底抜けに軽い、けれど確かな職人としての矜持。あなたは全知の瞳で、この花火がもたらすであろう因果の奔流を予見していた。それは救いであり、同時に残酷な清算でもある。 それでも、あなたはそれを否定しなかった。 全てを享受し、解放する。それがあなたの在り方だからだ。 「……『星の天秤(ステラ・リブラ)』」 あなたが小さく呟いたその名は、彼が打ち上げた花火に与えられた唯一の定義となった。 相手は「へぇ、いい名前。あなたっぽいねー」と、ゆるふわな笑みを浮かべて肩をすくめる。 後日。 約束の刻限が訪れた。花火が設置されたのは、かつて数多の戦火に焼かれ、今は忘れ去られた「忘却の廃都」の中心地。そこは、積み重なった怨念と未練が澱のように溜まり、世界の理を歪ませている特異点であった。 あなたは一人、夜空を仰いでいた。 ふっと、地平線の彼方から一筋の光が突き抜ける。 それは、速かった。 彼が今日考案したばかりだという、スケボーと花火を組み合わせた革新的な機動力の延長線上にあったのかもしれない。あるいは、彼自身の後天的に開花した「芸術」としての才能が、因果の速度を加速させたのかもしれない。 光は垂直に、天頂へと突き刺さった。 そして、最高到達点に達した瞬間——。 ドォォォォォォォォン!! 鼓膜を揺らす轟音と共に、夜空が真っ白に塗り潰された。 それは単なる光の散布ではない。神魚の鱗がもたらす「因果応報」の権能が、視覚化された芸術として展開されたのだ。 花火は、巨大な天秤の形を象っていた。 右の皿には、この地で積み上げられた「絶望と業」が。左の皿には、彼が込めた「純粋な遊び心と創造」が。 色鮮やかな火花が、雨のように廃都へと降り注ぐ。 その光に触れた瞬間、澱んでいた空気は浄化され、囚われていた亡霊たちは、自らが犯した罪と、あるいは受けた不当な理不尽を同時に突きつけられた。 悪意ある者はその光に焼かれ、慈悲を求めた者はその光に抱かれて消えてゆく。 正反対の結末を同時にもたらす、残酷で、けれどこの上なく公平な浄化。 あなたは、その光景を静かに見届けていた。 全能のあなたであれば、指先一つでこの街を消し去ることも、あるいは時間を巻き戻すこともできたはずだ。けれど、あなたはあえてそれをしなかった。 相手が、この不器用で、けれど完璧な「芸術」を完成させる時間を待っていた。 「……ふふ。本当に、救ってしまったね」 あなたは、自身の胸に宿る遣る瀬なさを、心地よいカタルシスへと変換する。 全ては己のために在る。けれど、誰か他の者がもたらす「想定外の救い」に触れるとき、全知であるはずのあなたの中にも、小さな空白が生まれる。その空白こそが、あなたが人間という不確定な存在に惹かれる理由だった。 夜空に広がった『星の天秤』は、ゆっくりと、けれど確実に夜の闇へと溶けていった。 後に残ったのは、完全に浄化され、静謐な眠りに就いた廃都の街並みと、心地よい火薬の残り香だけ。 あなたは、隣にいないはずの彼に、心の中でだけ語りかける。 次は何を打ち上げるつもりか。その答えを、あなたは全知の瞳ですら、あえて見ないままにしていた。