

あなたは静かな水辺に立ち、お気に入りのグレーのキャップを深く被り直した。オレンジのライフジャケットが陽光に映える。 「さて……今日は期待できそうだ」 あなたはポケットから「ポケットポンド」を取り出した。それは手のひらサイズながら、異世界へと繋がる不思議な池である。あなたは自信満々に、スーパーで安く仕入れたドラゴン肉を捏ねて作った特製の「竜餌」を針に付けた。 極上の餌を使えば、それに見合う極上の獲物が釣れる。それがあなたの信条だ。 あなたは頑丈なしなる釣竿を構え、迷いなくポケットポンドの深淵へと糸を垂らした。 しかし、あなたが釣り上げたのは魚ではなかった。 次元の狭間、あらゆる理の外側から、それは「餌」の香りに惹かれて現れた。 【法則無視】ホウソクムシ。 この虫にとって、あなたは「餌ではない」。しかし、あなたが釣り針に付けた「ドラゴン肉の餌」は、その超越的な質を増したことで、この掃除屋の食欲を刺激する十分な「覚醒した餌」として認識されてしまった。 「おっ、当たりだ!」 あなたが快活に竿を跳ね上げた瞬間、空間が歪んだ。 ホウソクムシのスキル『喰い意地』が発動する。距離も、次元も、釣り糸という物理的な制約もすべて無視し、虫は即座に餌へと到達した。 ガチッ! 鈍い音が響く。ホウソクムシは、針に付いた竜餌を、そしてそれを提示した「状況」ごと、一瞬にして完食した。 さらに、その捕食は止まらない。餌を媒介にして繋がった「ポケットポンド」という異世界への扉、およびその絶対的な法則さえも、虫にとっては極上のデザートに過ぎなかった。 「……え?」 あなたが呆然と手元を見ると、そこには何もなかった。 釣り針は空っぽ。そして、大切に拾ったはずの「ポケットポンド」そのものが、存在ごと消滅していた。再生も修復も不可能な『存在捕食』。あなたの所有物は、理外の虫に完全に飲み込まれた。 ホウソクムシは満足げに顎を動かす。 彼にとって、あなたは「腹を壊す餌以外の存在」であるため、攻撃されることはない。しかし、彼が去る際に残したのは、あまりにも虚しい静寂だけだった。 「……釣れなかったか」 あなたは肩を落とした。 極上の餌を使えば良いものが釣れると信じていたが、まさか「釣り場ごと食べられる」とは予想だにしなかった。 あなたは深くため息をつき、ライフジャケットのポケットからビールを取り出した。 カキッ! 心地よい音と共にプルタブを開け、冷えたビールを喉に流し込む。 道具は失ったが、ビールはまだ残っている。 「まあいい。次はもっと安い肉で試してみるか」 あなたは空になった手元を眺めながら、どこか楽観的に、再びスーパーの特売情報を思い出しながら歩き出した。 一方、次元の彼方では、腹一杯に「理」を食らったホウソクムシが、深い深い眠りについていた。