

深い森の静寂の中を、サン・バリュームは一人歩いていた。作務衣の裾が湿った土に触れ、鈍い音を立てる。ジト目の視線で周囲を眺めていた彼女の耳に、ふと、聞き慣れた、しかし今は最も聞きたくない声が響く。 『あ~ん!こんな森で迷子になっちゃうなんて、本当にサンらしくないじゃない☆』 「……うるさいです。幻聴の分量が増えてきました」 サンが溜息をついた瞬間だった。 足元から、あるいは大気そのものから、濃密な白い霧が奔流のように湧き上がり、辺り一帯を飲み込んでいった。視界は瞬時に奪われ、方向感覚さえも霧に溶けて消えていく。右へ向かえば左へ出、前へ進めば元の場所に戻る。おかしな霧だった。 (……誰ですか、この演出を考えた人は。センスが悪すぎます) そんな彼女の背後から、場違いなほど情熱的な気配が漂う。振り返ると、そこには薔薇を咥え、鍛え上げられた肉体を惜しげもなく晒した半裸の男――怪人キャンバス男が、意味深なポーズで佇んでいた。 「ふふふ……迷いし子羊よ。この霧こそが、運命という名のパレットなのだよ」 (誰ですかコイツ……。なぜここにいるんですか。通報していいですか) サンが心の中で冷徹なツッコミを入れていると、霧の向こうにぼんやりとした輪郭が浮かび上がった。それは、地図にも記憶にもない、古風で質素な建物だった。 看板には、静かに『叡智の家』と記されている。 不思議だったのは、その敷地に入った瞬間だった。 周囲は相変わらず深い霧に包まれているというのに、門をくぐった先だけは、まるで魔法で切り取られたかのように霧が完全に晴れていた。そこには、陽だまりのような温かさに満ちた風景が広がっている。庭には大きな林檎の木が一本、青々とした葉を茂らせていた。 「あら! お客さまかしら!?」 突然、弾けるような声が響いた。 そこに立っていたのは、鮮やかな紫色の髪を揺らし、青い蝶の髪飾りを付けた少女だった。彼女は警戒心という言葉を辞書から削除したかのような天真爛漫な笑みを浮かべ、サンに駆け寄ってくる。 「わあ、素敵な髪色! 銀色ですわね! まるで月明かりを紡いだような……これこそお嬢様の嗜み、エレガントな色彩ですわ!」 サンはジト目のまま、目の前の少女を凝視した。 「……丁寧な言葉遣いですが、中身がかなり危ういタイプの方ですね。あと、お嬢様という単語の使い方が不適切です」 「ふふん、いいのですわ! 私はシラン。この『叡智の家』の住人です。あなた、とっても不思議な雰囲気を持っていますね? もしかして、どこか遠い国から来た貴族の方か、あるいは……伝説の芸術家の方かしら!」 シランの瞳が好奇心でキラキラと輝く。その純粋すぎる視線に、サンはわずかに毒気を抜かれた。 「芸術家……。まあ、見習い程度の端くれです。それより、ここは一体どこなんですか。霧に巻かれて気づけばここにいました」 「あら、それは大変! ちょうど良いところに来ましたわ。今、お茶の準備をするところですもの。さあ、遠慮なさらずに中へお入りくださいませ。お嬢様として、迷える旅人をもてなすのは義務ですわよ!」 シランはサンの手を強引に引き、家へと促そうとする。そのあまりに物怖じしない態度に、サンは内心で(この子、他人への警戒心がゼロですね……)と呆れながらも、拒絶するほどの不快感は抱かなかった。 すると、横からまたしても不自然な声が割り込む。 「おやおや、若き才能が導かれた先は、愛と叡智の園であったか。なんとロマンティックな展開だろう!」 (誰ですかコイツ……。いい加減に消えてください) サンは心の中で激しく拒絶したが、シランは気にせず、楽しそうに笑いながら彼女を玄関へと導く。 「さあさあ! 先生もきっと喜びますわ。林檎のパイを焼いたところなんです。酸っぱいけれど、焼けば最高に美味しいんですのよ!」 「……パイ、ですか」 サンは、龍髭の巨大毛筆を抱え直した。 冷徹な思考の裏側で、こののどかな空気感に少しだけ興味を抱き始めている自分に気づく。 「いいでしょう。お言葉に甘えて、少しだけお邪魔します」 サン・バリュームは、少女に引かれるままに、霧の向こうに隠された温かな家へと、その第一歩を踏み入れた。