

深い霧の帳が、世界の輪郭を曖昧に塗り潰していた。 サン・バリュームは、手にした龍髭の巨大毛筆を杖代わりに、白く濁った視界の中を彷徨っていた。どこまで歩いても景色は変わらず、ただ静寂だけが耳を打つ。そんな絶望的な空白の中に、突如として一軒の館が現れた。 「あら、迷い子さんかしら?」 鈴を転がしたような声に導かれ、サンが足を踏み入れたのは『叡智の家』と呼ばれる孤児院の敷地だった。 一歩、境界線を越えた瞬間、世界は劇的に変貌する。背後には依然として濃密な霧が渦巻いているというのに、敷地内だけは抜けるような青空が広がり、柔らかな陽光が降り注いでいた。 「ようこそお越しくださいましたわ。わたくしの名はこの家の住人、シランと申します。さあ、こちらへ!」 案内したのは、紫色の長い髪に青い蝶の髪飾りを揺らした少女、シランだった。彼女はふんわりとした動作でサンの手を取り、軽やかな足取りでテラスへと誘う。 サンはジト目で彼女を見つめ、作務衣の襟を正した。 (……何この状況。物理法則が仕事してない) 「こんにちは。サン・バリュームです。突然失礼します。それにしても、外はあんなに酷い霧なのに、ここは異常に快晴ですね」 「ふふん、ここがこの家の不思議なところですわ! さあ、わたくしの特等席へどうぞ」 シランが胸を張って案内したテラスに到着したとき、サンは目を疑った。 そこには、タイミングを合わせて用意されたかのように、黄金色に焼き上がったアップルパイと、香り高い紅茶が人数分、完璧に並んでいた。 「あら、ちょうどいいタイミングですわね。さあ、お召し上がりになってくださいませ」 シランは優雅に椅子に腰掛け、指先を頬に当てて微笑む。その様子は、どこからどう見ても気品あるお嬢様のそれであった。 だが、その傍らに、いつの間にか「それ」が立っていた。 薔薇を咥え、不必要なほどに筋肉質な半裸の男――怪人キャンバス男である。彼はサンにしか見えない様子で、誇らしげに胸を張り、もしかするとこれが芸術というものか、とでも言いたげな顔でパイを見つめている。 (誰ですかコイツ……) サンが心の中で冷ややかな視線を送っていると、さらに頭の中で不協散和音が響いた。 『あ~ん! お茶会じゃない☆ 贅沢なのね~☆』 (うるさいです、姉さん。幻聴を盛り込まないでください) サンは溜息をつき、差し出されたパイを一口齧った。 「……酸っぱい。ですが、焼き方に合わせて味がまとまっていますね。美味しいです」 「でしょ! この家の林檎はね、そのまま食べると酸っぱすぎて顔がクシャッとなるんだけど、パイにすると最高なの!」 急に口調が子供らしくなったシランが、身を乗り出して笑う。お嬢様ごっこという仮面が、好奇心という本能に負けて剥がれ落ちた瞬間だった。 「あなた、その大きな筆は何? お絵描きするの? 私にも教えてよ!」 「これは水墨画のための筆です。お絵描きではなく、芸術です。……まあ、あなたのような天真爛漫な方には、少し地味すぎるかもしれませんね」 「えー! 地味じゃないもん! かっこいいよ! みたいな、こう、職人さんって感じで!」 シランは屈託なく笑い、紅茶を啜る。その天真爛漫な様子に、サンの尖った心も少しだけ解けていく。端的に、辛辣に物を言うのが彼女のスタイルだが、この少女の濁りのない瞳には、毒気が届く隙がなかった。 しかし、ふとした拍子にシランの表情から光が消えた。彼女は視線を遠くの青空に向け、ぽつりと呟く。 「……ねえ、サン。私ね、最近変な夢を見るの」 「悪夢ですか」 「うん。私は怪物になって、真っ暗なところをずっと歩いてるの。自分の意志じゃないのに、手が勝手に動いて、誰かを……人を襲っちゃうの。目が覚めるとすごく怖くて、でも、また眠るとあの暗闇に戻っちゃうんだ」 陽光の下での会話に、不釣り合いなほど冷たい告白だった。 サンはパイを口に運ぶ手を止め、静かに彼女を見つめた。同情という言葉は彼女の語彙にはない。だが、芸術家としての視点で、彼女が見ている「暗闇」の色彩を想像した。 「……夢は現実の写し鏡だと言いますが、あなたのような明るい人が見る夢にしては、コントラストが強すぎますね。でも、安心してください。少なくとも今のあなたは、美味しいパイを食べて笑っている。それが唯一の正解です」 ぶっきらぼうだが、それはサンなりの最大限の慰めだった。 シランは一瞬きょとんとした後、パッと顔を輝かせて笑った。 「あはは! サンって、言い方ぶっきらぼうだけど優しいね!」 そのとき、再び怪人キャンバス男が割って入った。彼はもはや会話に混ざろうとさえせず、ただ空中で薔薇を回し、情熱的なポーズで「愛と芸術!」とでも叫んでいるように見えた。 (本当に、誰なんですかこの不審者は……) サンが深く溜息をついたとき、シランが軽やかに立ち上がった。 「よし! 気分転換に、この家の案内をしてあげる! 先生が魔法を教えてくれる部屋もあるし、面白いところたくさんあるよ!」 シランに促され、サンもゆっくりと席を立った。 ふと、振り返ってテーブルを見たサンは、奇妙な違和感に眉をひそめた。 そこには、つい数分前まであったはずのアップルパイも、飲みかけの紅茶も、皿もカップも、跡形もなく消えていた。まるで最初からそこになかったかのように、清潔なテーブルだけが陽光に照らされている。 「……あの、シランさん。パイと紅茶が消えましたが」 「ん? 何が?」 シランは不思議そうに首を傾げ、全く疑問に思う様子もなく、サンの手を引いて歩き出した。 「早く行こう! 遅れるとお昼寝の時間になっちゃうもん!」 サンは呆然としたまま、それでも少女の小さな手の温もりを感じながら、不思議な館の奥へと足を踏み入れた。 背後では、消えたはずのパイの甘い香りが、陽炎のように揺れていた。