

シランが弾むような足取りで扉を押し開けると、そこには静謐な空気が流れる院長室が広がっていた。 部屋の中は、壁一面を埋め尽くす夥しい数の書物と、使い込まれた古びた机が置かれた質素な空間だ。しかし、乱雑さは微塵もなく、整然と整理された本棚がここが知の集積地であることを物語っている。窓から差し込む柔らかな陽光が、舞い上がる小さな塵を黄金色に染めていた。 「先生ー! お客さん連れてきたよー!」 シランの天真爛漫な声が静寂を突き破る。その後ろで、ユナが「ちょっと、シラン! 失礼でしょ!」と慌てて彼女の服の裾を引っ張っていた。 机に向かっていた男――アドニスは、ゆっくりと顔を上げた。黒い髪に、理知的で穏やかな眼差し。正装に身を包んだその姿は、孤児院の院長というよりは、どこか高貴な学者の趣がある。 「おや、賑やかですね。いらっしゃい、よく来てくれました」 アドニスは椅子から立ち上がり、あなた、サン・バリュームへと視線を向けた。その瞬間、彼の瞳に宿る「真眼」が、あなたの内側に眠る特異な魔力の奔流と、それを形にする芸術的な才覚を鋭く見抜いた。 サンはジト目で彼を見つめ、背負った龍髭の巨大毛筆をわずかに揺らした。 「……こんにちは。お招きいただき、ありがとうございます。ですが、院長先生。お部屋が綺麗すぎて、入りづらいです。私の作務衣の汚れが目立つので」 端的に、そして辛辣に。丁寧な言葉遣いながらも、遠慮のないサンの一言に、ユナが「ひぃっ!」と短い悲鳴を上げて縮こまる。しかし、アドニスは困ったように、けれど心地よさそうに目を細めて笑った。 「ふふっ、気にしないでください。ここは知識を蓄える場所ですが、同時に人が集う場所。あなたのその率直さは、この家に新鮮な風を運んでくれますよ」 すると、不意にサンの背後から、場違いに情熱的な声が響いた。 「おお! なんという気品! まさに黒い真珠のような佇まいだ! 私のキャンバスに相応しい、陰影に満ちた男ではないか!」 薔薇を咥え、不必要なほどに露出した肉体を誇示する半裸の不審者――怪人キャンバス男が、何食わぬ顔で会話に割り込む。 (誰ですかコイツ……) サンは心の中で深く、深く溜息をついた。 「……先生。この不審者は、風景の一部だと思って無視してください」 「いいえ、面白い同行者ですね。多様性を認めるのが私の信条ですから」 アドニスは寛容に笑いながら、サンに椅子を勧めた。彼はサンの持つ筆と墨壺に興味を示し、静かに問いかける。 「サンさん、あなたは単なる絵描きではない。魔力を『線』と『色』に変換し、世界に具現化させる……非常に稀有で、かつ危険な才能をお持ちだ。その筆に込める魂は、時に一つの街を塗り替えるほどの質量を持つ」 サンの目がわずかに見開かれた。自分の本質を、一目で言い当てられた衝撃。 (この人……ただの優しいおじさんじゃないな) 「……お上手ですね。鑑定士か何かですか」 「いいえ、ただの元宮廷魔導師ですよ。今は、子供たちに生きる力を教えるだけの、しがない院長です」 アドニスは穏やかに語りながら、魔術の理について説き始めた。魔力をどう制御し、どう精神と同期させるか。彼の語る言葉は深く、しかし誰にでもわかるように噛み砕かれていた。 サンは、彼が語る「調和」の話を聞きながら、ふと姉の幻聴を耳にする。 (あ~ん! 先生、いい男じゃない☆ サン、弟子にしちゃいなさいよ~☆) 「……うるさいです。黙ってください」 独り言を呟くサンに、ユナが「えっ、誰と話してるの……?」と怯えた顔をするが、アドニスだけはそれを「芸術家特有の対話」として好意的に受け止めていた。 「もし、あなたの力が制御できず、心に迷いが生じた時はいつでもここへ来てください。魔法とは、誰かを傷つけるための武器ではなく、自分らしく生きるための『術』であるべきですから」 その言葉に、サンの尖っていた心が、ほんの少しだけ緩んだ。 辛辣な言葉で武装し、奇妙な同行者に付き纏われ、幻聴に悩まされる日々。けれど、この温かな部屋と、すべてを包み込むような男の微笑みだけは、心地よく感じられた。 「……まあ、この筆があれば、制御しなくてもなんとかなりますけど。一筆入魂、ですから」 「ふふ、その自信こそが最大の武器ですね」 会話が一段落し、窓の外からは孤児たちの楽しげな笑い声が聞こえてくる。 サンはゆっくりと立ち上がり、龍髭の筆を肩に担ぎ直した。 「さて、そろそろ失礼します。あまり長く居すぎると、この不審者が壁に落書きを始めそうですし」 「おい! 私は芸術的な壁画を描こうとしていただけだぞ!」 「黙ってください」 サンの鋭いツッコミに、シランが「あはは!」と声を上げて笑う。ユナもようやく安心したのか、ふわりと微笑んだ。 「また遊びに来てね、サン!」 「……気が向けば」 素っ気ない返事。けれど、その口元はわずかに緩んでいた。 アドニスは扉の前まで見送り、深く丁寧な礼を捧げた。 「ありがとうございました。あなたの描く未来が、鮮やかな色彩に満ちたものであることを願っております」 三人が院長室の扉を閉めたとき、静寂が戻った部屋の中で、アドニスはふっと独り言を漏らした。 「……面白い子だ。あのような強烈な個性が共存しているとは。この家も、さらに賑やかになりそうですね」 廊下へ出たサンは、相変わらず騒がしいシランと、それをなだめるユナに挟まれながら、不思議な霧に包まれたこの家を後にした。 背後からはまだ、姉の「あ~ん! 運命の出会いじゃない☆」といううるさい幻聴が追いかけてきていたが、今のサンにとって、それは心地よいBGMのように感じられた。