

霧に包まれた静謐な邸宅、「叡智の家」。 廊下を歩くサン・バリュームの耳には、不意に聞き慣れた、しかし不快なほどに陽気な声が響く。 (あ~ん!もしかして緊張してるんじゃない☆) 「……うるさいです」 サンは誰にともなく呟き、ジト目で隣を歩く少女たちを見た。 銀色のサイドテールを揺らし、作務衣を纏った彼女の傍らには、常に不気味な影が付き纏っている。薔薇を咥え、不必要なほど筋肉を露出させた半裸の男――怪人キャンバス男だ。彼はサンにだけ見える、あるいは彼女の人生に強引に割り込んできた不審者である。 「ここだよ!リルフェルとリリティアのお部屋!」 シランが天真爛漫に扉を開ける。 「ちょ、ちょっとシラン!いきなり入るのは失礼だってば……!」 ユナが慌てて制止しようとしたが、扉は既に開かれていた。 部屋の中には、対照的な雰囲気を持つ二人の幼い少女がいた。 黒髪の人狼少女、リルフェル。そしてアイスブルーの髪をなびかせた魔女、リリティア。 リルフェルは瞬時に耳を伏せ、警戒心に満ちた瞳でサンを凝視した。野生の直感で「見知らぬ大人」への警戒を強めている。一方のリリティアは、不遜に足を組み、冷ややかな視線を投げかけた。 「あら、またシランが変な客を連れてきたのね。ここは動物園じゃないわよ」 リリティアの毒舌に、サンは表情一つ変えず、淡々と返した。 「初対面の相手に言う言葉ではありませんね。礼儀という概念をどこかに落としてきたのでしょうか」 「……っ!この女、口が悪いわね!」 「お褒めに預かり光栄です」 (誰ですかコイツ……) サンは、隣で「ふむ、芸術的な緊張感だね!」と不必要に頷いているキャンバス男を内心で切り捨てた。 「まあまあ!みんな仲良くしてよ!」 シランが間に入り、持っていたトランプの束をテーブルに広げる。 「ねえ、ゲームしようよ!ルールは簡単。ただのトランプじゃないよ、『お絵描き・ポーカー』にしよう!」 シランが提案したルールは奇妙だった。 役を作って勝敗を決めるが、負けた側は「勝った人が指定したお題」を、その場で描かなければならない。ただし、描き手は相手の身体や衣服、あるいは部屋の壁など、あらゆる場所をキャンバスにして良いという、かなり奔放なルールである。 「ふん、いいわ。私の魔力で、あなたに完敗を味合わせてあげる」 リリティアが好戦的に笑う。 リルフェルはまだおどおどしていたが、ユナが優しく背中をさすると、「……僕も、やる」と小さく呟いた。 ゲームが始まった。 カードを配る手の動き、緊張感に包まれた静寂。リルフェルは鋭い観察眼で、相手がどのような表情でカードを引いたかを読み取ろうとしていた。 「……チェック」 サンは淡々とカードを切り、チップを置く。彼女の瞳は冷徹なまでに冷静だった。 (あ~ん!ここでブラフをかけるのが正解なのね~☆) (……黙ってください) 脳内の姉の幻聴を無視し、サンは最後の一枚を伏せた。 「私の勝ちね。フルハウスよ!」 リリティアが勝ち誇ったようにカードを叩きつける。 しかし、サンが静かにカードをめくると、そこには完璧なフォーカードが並んでいた。 「……えっ」 リリティアの顔が凍りつく。 「私の勝ちです。さて、お題は……そうですね、『絶望する魔女』でお願いします。場所は、あなたの額で」 サンは迷いなく、懐から小毛筆を取り出した。 「ちょっ、待ちなさい!何を描く気よ!」 「静かに。画竜点睛、と言いますか……単なる落書きですが」 サンの手が鮮やかに動く。シュッ、シュッ。 一瞬にして、リリティアの白い額に、極めて簡素ながらも絶妙に情けない表情をした「泣き顔」の落書きが描き込まれた。 「ぎゃあああ!消して!今すぐ消しなさいよ!!」 「芸術に妥協は許されません」 その様子を見て、リルフェルがクスクスと笑い出した。 「リリ、似合ってるよ」 「リルフェル!あなたまで!!」 その後、ゲームは白熱した。 リルフェルは勝敗に拘らないと言いつつも、サンが描く水墨画のような精緻な落書きに興味を持ち、「ここにも描いて」と袖を差し出す。 リリティアは負けず嫌いを発揮して猛攻を仕掛けたが、サンの「端的で辛辣な精神攻撃」と「正確無比な筆致」に、次第にペースを乱されていった。 「あはは!みんな楽しそう!」 シランが笑い、ユナが「もう、めちゃくちゃだよ……」と呆れながらも、心地よい空気感に包まれていた。 キャンバス男はいつの間にかリルフェルの隣に座り、「君の毛並みは黄金比だね!」と不審な称賛を送っていた。 やがて、楽しい時間は終わりを告げる。 「そろそろ失礼します。良い暇つぶしになりました」 サンは筆を片付け、作務衣の裾を整えた。 「また来てよ!今度はもっとすごいゲームを考えとくから!」 シランに手を振られ、サンは小さく頷いた。 三人が部屋の扉を開け、外へ出た瞬間。 ――視界が、一変した。 足元にあったはずの廊下はない。 目の前に広がっていたのは、柔らかな陽光が降り注ぐ、広大な庭園だった。 振り返ると、そこにあるはずの扉は消え、壁さえも存在しない。 つい数秒前まで会話していたリルフェルとリリティアの気配も、完全に消え去っていた。 サンは呆然と立ち尽くし、ジト目で周囲を見渡した。 (……一体どういう構造になっているんですか、この家は) しかし、隣にいる二人は、まるでそれが当たり前のことであるかのように、自然に微笑んでいた。 「ふふっ」 シランが小さく、歌うように囁く。 「また会えるかな」 「うん、きっとね」 ユナがそれに同意し、優しく微笑み返した。 不思議な霧が、再び彼女たちの足元を包み込んでいく。 サンは深くため息をつき、懐の墨壺を握りしめた。 (あ~ん!ミステリアスな展開じゃない☆) 「……本当に、うるさいです」 銀色の髪を風に揺らしながら、サンは再び、霧の向こうへと歩き出した。