

薄い霧に包まれた「叡智の家」の敷地外れ。湿った土の匂いと、どこか懐かしい古書の香りが混ざり合う場所に、その地下室への入り口は口を開けていた。 重い木製の扉には、殴り書きのような筆致で『立入禁止』の張り紙が貼られている。しかし、案内役の少女シランと、意気揚々と胸を張る少年グラスにとって、それは単なる「お誘いの看板」に過ぎないようだった。 「えへへ、ここが秘密の場所なんだって!ね、あなたもワクワクするでしょ?」 シランがふわふわとした足取りで、あなたの袖を引く。紫色の髪に揺れる青い蝶の髪飾りが、薄暗い廊下で小さく舞った。 「ふふん、準備は万端だよ。先生の部屋からこっそり鍵を拝借してきたからね。僕たちがこの家の開拓者になるんだ!」 グラスが誇らしげに掲げたのは、鈍く光る真鍮の鍵だった。あなたはジト目でその光景を眺め、静かに口を開く。 「……器量がいいことですね。大人の持ち物を盗んでまで得たい好奇心とは、大抵の場合、後悔という名の報酬で返ってくるものですが」 「あ~ん!言い方が辛辣すぎるんじゃない☆」 耳元で、どこからともなく姉・ヤンの幻聴が響く。あなたは眉をひそめ、無意識に腰に差した巨大な龍髭の毛筆に手を置いた。 「おやおや、お嬢さん。そんなに尖っていては、せっかくの美しい銀髪が逆立ってしまいますよ」 不意に、隣にいつの間にか立っていた半裸の男が、口に薔薇を咥えてウィンクをした。怪人キャンバス男である。 (誰ですかコイツ……) あなたは心底呆れながら、彼を完全に無視して地下室へと足を踏み入れた。 カチリ、と鍵が回る音が静寂に吸い込まれる。扉が開いた瞬間、ひんやりとした冷気が頬を撫でた。棚には魔法石のランタンがいくつか並んでおり、グラスがそれを手に取り、通路を照らし出す。 地下室は意外なほど広く、迷宮のように長い通路が続いていた。壁一面には古びた書棚が並び、革装の魔導書や、得体の知れない器具が整然と並んでいる。元宮廷魔導師アドニスの蔵書か、あるいは遺物か。静謐な空気が支配する空間に、子供たちの足音だけが不協和音のように響く。 「わあ……!お星様みたいにキラキラしてる!」 シランが魔法石の光に目を輝かせ、あちこちを走り回る。その危なっかしい様子に、あなたは溜息をついた。 ふと、あなたは同行していたはずのもう一人の少女、ユナの姿がないことに気づく。 「……ところで、ユナさんはどこへ行ったのですか」 あなたの問いに、シランは不思議そうに小首をかしげた。 「え? ユナなら自分の部屋にいるよ? あなた、変なの」 「……はい?」 あなたは絶句した。つい先ほどまで、臆病そうにあなたの後ろに隠れていたはずだ。グラスに視線を向けると、彼は全く疑問に思う様子もなく、鼻を鳴らした。 「そうだよ。あいつは怖がって最初から来てないだろ。それより見てよ、この部屋!すごい本があるぞ!」 (……記憶の改竄ですか。それとも私の認知機能の欠如?) 困惑に包まれるあなたを余所に、一行はさらに奥へと進む。備蓄庫には保存食や薬草が整然と積まれ、非常時の避難所としての機能が維持されていた。しかし、進めば進むほど、空気は重く、澱んでいく。 やがて、一行は最奥の部屋に到達した。 そこは、他の部屋とは明らかに異なる空気が流れていた。埃ひとつない石造りの小部屋。中央には古びた円卓があり、壁には色褪せた地図が貼られている。 あなたはふと、足元の敷石に違和感を覚えた。 一枚だけ、周囲よりもわずかに沈み込んでいる。 「……ここですね」 あなたがその石に手をかけ、軽く押し込む。すると、ガチリという重い音と共に、石板が横にスライドし、暗い穴が現れた。 そこから漏れ出していたのは、極めて微かな、青白い光源。 あなたは好奇心に抗えず、その穴の中を覗き込んだ。 深い、深い底。 そこには、正体不明の「誰か」がいた。 太い鎖で厳重に拘束され、絶望に塗り潰されたような影が、静かに、けれど確実に息をしていた。その姿を見た瞬間、背筋に凍り付くような寒気が走る。 「あなたー!こっちに面白いものがあるよー!」 背後からシランの無邪気な声が響いた。 あなたは反射的に振り返る。そこには、壁のシミを指差して笑うシランと、木剣を振る練習を始めたグラスの姿があった。 (……今の、は何だったのか) わずか一秒。 あなたが再び視線を穴へと戻したとき。 そこには、ただの平坦な敷石があるだけだった。 隠し穴など、最初から存在しなかったかのように。 「…………」 あなたは呆然と立ち尽くす。龍髭の毛筆を握る手に、じっとりと汗が滲んでいた。 「あ~ん!幽霊でも見たんじゃない☆ 乙女がそんな顔してたら、お化けに好かれちゃうわよ~☆」 またしても姉の幻聴が、愉快げに鼓膜を揺らす。 「……もう十分です。帰りましょう」 あなたの声は、自分でも気づかないほどに震えていた。 「えー!もう帰るの? まだ探索したいのに!」 不満げに頬を膨らませるシランと、それに同意して駄々をこねるグラス。そして、なぜかあなたの肩に手を回し、「人生の儚さについて語り合いましょう」と囁く半裸のキャンバス男。 (誰なんだよ、本当に……) あなたは深い溜息をつき、子供たちに背中を押されるようにして、光の射す地上へと戻っていった。 扉を閉め、再び『立入禁止』の張り紙が視界に入る。 背後から聞こえる子供たちの笑い声と、不気味な静寂。 あなたは一度だけ振り返り、冷たい地下室の扉を凝視した。そこには、今のあなたにしか見えない、誰かの嘆きが張り付いているような気がしてならなかった。