

薄暗い地下室の埃っぽい空気から脱し、地上へと戻ると、そこには心地よい午後の陽光が降り注いでいた。 「叡智の家」を囲む庭園には、手入れされすぎない自然な草花が咲き乱れ、遠くで子供たちの無邪気な笑い声が風に乗って聞こえてくる。石畳の道は年月を経て角が取れ、どこか懐かしく、優しい空気が漂っていた。 「あはは! やっぱり外は気持ちいいね!」 紫色の髪を揺らし、青い蝶の髪飾りをひらつかせて、シランが天真爛漫に笑う。その隣では、剣士に憧れる少年グラスが、まだ興奮冷めやらぬ様子で木製の練習剣を構えていた。 「ふん、地下室の探索だってば! 次はもっとすごいお宝がある場所を僕が見つけてやるからな!」 意気揚々と胸を張るグラスに、サン・バリュームはジト目で視線を向けた。銀色のサイドテールが、彼女の冷ややかな心情を映すように小さく揺れる。彼女は手に持った巨大な龍髭の毛筆を、まるで杖のように突きながら、淡々とした口調で言い放った。 「お疲れ様でした。あなたのその根拠のない自信だけは、一流の芸術品並みに完成されていますね」 「ええっ!? サン、今の言い方、褒めてるの? けなしてるの!?」 困惑するグラスを置いて、シランは「もー、グラスは単純だねぇ」とくすくす笑いながら、サンの腕に遠慮なく抱きついた。 (……誰ですかコイツ……) サンの脳裏に、不意に不審な影がよぎる。視線をずらすと、そこにはいつの間にか、薔薇を一輪くわえた半裸の男――怪人キャンバス男が、彫刻のようなポーズで立っていた。彼はサンの視線に気づくと、情熱的な眼差しでウィンクを飛ばし、大げさな仕草で胸に手を当てた。 「おお、麗しき水墨の乙女よ! その冷徹な眼差しこそが、私の魂に鮮やかな色彩を塗りつける!」 (誰ですかコイツ……本当に誰なんですか……) サンの内心に激しい拒絶が渦巻く。同時に、頭の中で聞き慣れた、そして最も聞きたくない姉の幻聴が響き渡った。 『あ~ん! 不審者に好かれてるじゃない☆ 青春なのね~☆』 (……うるさいです。黙ってください) サンが心の中で激しくツッコミを入れていると、グラスは「じゃあ僕は訓練に戻るよ!」と元気に走り去っていった。 残されたのは、ふわふわとしたシランと、不気味な情熱を燃やすキャンバス男、そして深い溜息をつくサンの三人。 その時だった。 どこからともなく、静謐な、しかし絶対的な存在感を纏った足音が近づいてきた。 「あら。賑やかなお客様がいらしているようですね」 現れたのは、深いフードを被り、目隠しをした女性――スペアだった。身に纏うローブには精巧な魔導具が装飾され、彼女が歩くたびに微かな魔力の残滓が、燐光のように地面に散った。 サンは反射的に身構え、龍髭の筆を握り直す。相手から漂う空気は丁寧で穏やかだが、その奥底には、触れれば指先が凍りつくような、底知れない冷徹さが潜んでいた。 「初めまして。貴方が新しくこの家に訪れた方ですね。私はスペア。院長のアドニスの旧友であり、この家の……まあ、いわば管理人の一人といったところです」 スペアは静かに微笑んだ。目隠しのせいで視線は見えないが、彼女がサンの全身を、その本質までも見透かしていることは分かった。 「ご丁寧に。水墨画家見習いのサン・バリュームです。管理人のあなたに挨拶するほど、私は社交的な人間ではありませんが」 「ふふ、率直でいい。芸術に携わる方は、往々にして個性が強いものですから」 スペアの言葉に、横からキャンバス男が割り込む。 「ハッ! 個性の問題ではない! 彼女の美しさは、もはや一つの宇宙であり、完成された叙事詩なのだよ!」 スペアはキャンバス男の方へは一切視線を向けず、淡々とサンへ語りかけた。 「貴方の持つその筆……興味深い魔力を宿していますね。古の魔女たちが追求した『具現』の理に近い。もしよろしければ、後ほど詳しくお話を伺いたいところですが」 (……この人、底が見えない。危ない人だ) サンは直感的にそう感じた。相手は礼儀正しいが、その関心は「人」ではなく、あくまで「能力」や「知識」に向いている。 一方、隣にいるシランは、スペアが目の前に立っているにもかかわらず、全く反応していなかった。彼女はただ、楽しそうに空を舞う蝶を追いかけ、「あ、あっちに綺麗な花が咲いてるよ!」と、スペアの存在を完全に無視して跳ね回っている。 不思議な光景だった。この場にいて、スペアという強力な魔導士を認識していない人間がいる。あるいは、認識することを許されていないのか。 会話を続けようとしたスペアが、ふと足を止めた。 その瞬間、周囲の空気が凍りついた。 「ところで、貴方。この家に何を目的に来たのですか?」 「……ただ、霧に導かれただけです。目的など、最初からありません」 サンの端的すぎる回答に、スペアは小さく肩をすくめた。 「目的のない旅こそが、時に最上の真実へと辿り着く。いいでしょう。あなたという人間が、この理想郷にどのような色を添えるのか、見守らせてもらうことにします」 穏やかな会話。しかし、サンの背中には冷たい汗が流れていた。 キャンバス男が「愛こそが真実だ!」と叫び、姉の幻聴が『お姉さんとデートしなさいよ☆』と茶化す。混沌とした状況の中、シランがふっと足を止めた。 それまで、ふわふわと危なっかしい様子で笑っていたシランが、ゆっくりとスペアの方を向いた。 その瞬間だった。 シランの瞳から光が消え、表情から一切の幼さが消え失せた。 彼女の口から漏れたのは、これまで一度も聞いたことのない、低く、冷酷な、絶対的な拒絶を孕んだ声音だった。 「――お前はいらない」 短く、断じるような呟き。 直後、世界が真っ暗に塗り潰された。 視覚も、聴覚も、すべてが一瞬にして闇に飲み込まれる。サンは激しい衝撃に襲われ、思わず目をつむった。 ……どれほどの時間が経っただろうか。 再び光が戻ったとき、そこには元の、陽だまりの庭園が広がっていた。 そして、そこにスペアの姿はなかった。 まるで最初からそこに存在しなかったかのように、痕跡一つ残らず消え去っていた。 「あーっ! 思い出した! お茶の時間だね!」 シランが、いつもの明るい、子供っぽい声で笑っていた。 彼女は先ほど、冷酷な言葉を吐いたことなど微塵も覚えていない様子で、サンの手をぎゅっと握りしめる。 「ほらほら、サン! 早く行こう! 先生が美味しいお菓子を用意して待ってるからね!」 (……今、何が起きたんですか……?) 呆然とするサンの横で、キャンバス男だけが「なんと劇的な幕切れだ!」と拍手を送っていた。 混乱し、困惑し、そして心地よい疲労感に包まれながら、サンはシランに引かれるままに歩き出した。 辿り着いたのは、見晴らしの良いテラス。 そこには、白いテーブルクロスが掛けられたテーブルと、湯気を立てる紅茶、そして彼らを待つ穏やかな笑顔の院長――アドニスの姿があった。 陽光に照らされたテラスの風景は、あまりにも平和で、つい先ほどまで起きていた不可解な出来事が、まるで質の悪い夢だったかのように感じられた。