

視界が塗り潰された。 つい先刻までそこにあった、陽だまりの心地よさと、淹れたての紅茶の香りは、暴力的なまでの「無」に飲み込まれた。 サン・バリュームが瞬きをした瞬間、世界から色が消え、光が消え、そして音が死んだ。 (……は?) サンは困惑し、手元の龍髭の巨大毛筆を握りしめる。 隣にいたはずのシランの気配が消えている。静寂。だが、それは完全な静寂ではなかった。 「……ぅ……あ……ぎ……ぅ……」 耳の奥に、直接ねじ込まれるような不協和音が響き始める。 それは言葉ですらなかった。意味を成さない音の断片が、泥のようにまとわりつき、解読不能な囁きとなって脳を掻き回す。 誰が話しているのか。どこから聞こえているのか。 方向性のない声が、幾重にも重なり、嘲笑うように、あるいは嘆くように、絶え間なく奔流となって押し寄せる。 (誰ですかコイツ……。いえ、そもそもここはどこですか) サンはジト目で周囲を睨みつけたが、そこには視覚的な情報は何一つ存在しない。ただ、濃密な闇があるだけだ。 しかし、その闇が「生きている」ことはすぐに理解できた。 足元から、背後から、あるいは頭上から。 何かが、蠢いている。 粘つくような気配が、サンという存在をゆっくりと囲い込み、じわじわと間合いを詰めてくる。 その時、耳元で聞き慣れた、そして最も不快な幻聴が響いた。 『あ~ん!こんなところでホラー展開じゃない☆』 (うるさいです。黙ってください、お姉さん) サンは内心で毒づきながら、筆を構えた。 たとえ相手が見えなくても、この不気味な空間に「線」を引けば、何かが分かるかもしれない。 だが、その思考を遮るように、闇の中に「輪郭」が浮かび上がった。 それは、暗闇よりもさらに深い、絶対的な黒だった。 黒い背景の中に、さらに黒い影。 逆説的な視覚的認識。それが、ぼんやりとした人型のシルエットとなって、サンの目の前に佇んでいる。 その姿を見た瞬間、サンは言いようのない既視感に襲われた。 どこかで見たことがある。いや、鏡を見た時に感じる、あるいは自身の深層心理に潜む「何か」に触れたような、不気味な親近感。 その影が、ゆっくりと腕を伸ばした。 指先がサンの頬に触れようとした瞬間。 「ふふっ、お似合いですよ。この絶望的なモノトーンは、まさに水墨画の真髄だ」 唐突に、至近距離から朗々たる声が響く。 サンが視線をずらすと、そこには薔薇を咥え、不自然なまでに筋肉を誇示的に晒した半裸の男――怪人キャンバス男が、自信満々にポーズを決めて立っていた。 (誰ですかコイツ……。いいえ、いつからここにいたんですか) 「お嬢さん!この闇こそが最高のキャンバス!さあ、共に狂気の色を塗り塗りしましょう!」 「……死んでください」 サンが端的に、そして最大限の拒絶を込めて言い放ったその時。 パチン、と。 指を鳴らしたような音が響いた。 視界を覆っていた絶対的な黒が、ガラスが割れるように粉々に砕け散る。 どっと流れ込んできたのは、眩い午後の陽光と、穏やかな風。 そして、鼻腔をくすぐる紅茶の芳醇な香り。 「……むにゃ……。あ、あなた!急に静かになったから、私、ちょっとだけ寝ちゃったかも!」 目の前では、紫色の髪を揺らした少女、シランが目を擦りながら、ぽかんとした顔でこちらを見ていた。 彼女にとって、時間は数秒しか経過していなかったのだろう。 テラスの椅子に深く腰掛け、口を半開きにしてキョトンとするその表情は、先ほどまでサンがいた「地獄」とはあまりにかけ離れていた。 サンは、まだ手に握られた巨大な毛筆の感触と、耳に残る不気味な囁きを反芻し、深く、深く溜息をついた。 (……本当に、不便な世界です) 隣で怪人キャンバス男が「さらばだ、闇よ!」と名残惜しそうにポーズを決めているが、サンはそれを無視して、冷めた紅茶を一口だけ啜った。