

陽光が斜めに差し込み、テラスの白い石畳を黄金色に染めていた。 周囲にいたはずの子供たちの喧騒はどこへやら、今はただ、心地よい風がカーテンを揺らす音だけが響いている。 不自然なほどの静寂。 先ほどまでここにあったはずの、あの不気味な暗闇は、まるで最初から存在しなかったかのように消え失せていた。 サン・バリュームは、手元の龍髭の巨大毛筆を軽く握り直し、ジト目で辺りを眺める。銀色のサイドテールが風に揺れ、作務衣の裾が小さく翻った。 (……静かすぎる。不気味なほどに) 彼女の内心に、ふと姉の幻聴が響く。 『あ~ん!不気味な雰囲気最高じゃない☆』 (うるさいです。黙ってください) そして、その隣には。 なぜかバラの花を口に咥え、筋骨隆々な半裸の男――怪人キャンバス男が、彫刻のようなポーズで立っていた。彼は至極当然のような顔で、この空間に溶け込んでいる。 (誰ですかコイツ……。というか、なぜここに居るんですか) サンが心の中で激しい拒絶を繰り返していると、隣でうたた寝をしていたシランが、ゆっくりと瞼を持ち上げた。 「ふぁ……あ……」 シランは小さくあくびをし、青い蝶の髪飾りを指で弄りながら、ぼんやりとした表情で空を仰いだ。彼女は、自分が眠っていた間に世界が一度闇に塗り潰されたことなど、微塵も気づいていない様子だった。 しかし、その瞳に宿る光は、先ほどまでの無邪気な好奇心とは少し違っていた。 「……もうすぐ日が沈むね」 唐突に漏れたシランの呟き。 サンが視線を向けると、テラスの向こう側に広がっていた深い霧が、潮が引くようにゆっくりと薄れているのが見えた。 「……そうですね。そろそろお別れの時間というところでしょうか」 サンは端的に、そして淡々と答える。彼女にとってこの「叡智の家」での体験は、奇妙で、不可思議で、そしてどこか心地よい違和感に満ちていた。 だが、シランの横顔に漂う空気は、急激に冷えていく。 少女は、寂しげに、ひどく切なげに遠くを見つめていた。 「ねえ、サン。この家はね、まだ……“優しいまま”なんだよ」 シランの声から、幼い子供のような弾みが消えていた。 代わりに宿ったのは、すべてを悟り切ったかのような、ひどく儚い響き。 「今なら、楽しい夢のまま終わらせられる」 そう言ってシランがこちらを振り返った。 その微笑みは、先ほどまでお嬢様ごっこに興じていた少女のそれではない。まるで、長い旅路の果てに辿り着いた者が、静かに幕を閉じようとする時のように、透き通っていて、残酷なまでに美しい。 泣き出しそうな、けれど慈しみに満ちた表情。 その矛盾した感情が、シランの整った容姿に絶妙な陰影を落としていた。 怪人キャンバス男が、ここで一度、情熱的にバラの花びらを散らした。 (……本当に、邪魔です) サンは、自分の指先に触れる筆の感触を確かめた。 水墨画を描けば、この風景を永遠に留めておけるかもしれない。だが、目の前の少女が放つ「拒絶」に近い哀しみは、どんな絵具でも塗り潰せるものではなかった。 シランは、ゆっくりとサンに向けて歩み寄る。 その足取りは、まるで地上から浮いているかのように軽やかで、同時に消えてしまいそうなほど危うい。 「……そろそろ、帰った方がいいよ」 ポツリと、押し付けるように告げられた言葉。 それは親切な勧めというよりも、切実な願いのように聞こえた。 「帰るなら、入り口まで送るよ」 シランは再び、酷く哀しげな微笑みを浮かべた。 その瞳の奥に何が潜んでいるのか。 なぜ、彼女はここまで悲しそうに笑うのか。 霧が晴れ、現実が戻ってくる。 夢の終わりを告げる鐘が、どこか遠くで鳴った気がした。