

黄昏が静かに降り注ぐテラス。ここはシランのお気に入りの場所だという。 心地よい陽光が、サン・バリュームの銀色のサイドテールを淡く照らし、周囲を包む静寂が、外界から切り離されたこの孤児院の異質さを際立たせていた。 「帰るなら入口まで送るよ」 シランが、ぽつりと呟いた。 いつもは太陽のように無邪気で、ふわふわと周囲を舞う蝶のような少女だ。しかし今の彼女は、どこか透き通って消えてしまいそうなほど儚げで、その瞳の奥に深い陰を宿している。 サンは、手にした巨大な毛筆を杖のように地面につき、ジト目で相手を見つめた。 「……断ります。霧が薄れたとはいえ、この時間に未知の道を進むのは効率的ではありませんし、何より面倒です」 端的で、そして辛辣な拒絶。だが、それは同時に「ここに留まる」という意思表示でもあった。 その言葉を聞いた瞬間、シランの肩がびくりと跳ねた。 「え……? 本当に? ここに泊まっていくの……?」 喜びが顔に浮かぶ。しかし、同時に彼女の瞳に、隠しきれない「恐怖」が混じった。 歓迎しているはずなのに、サンがこの家に留まることを、彼女は何故か恐れている。矛盾した感情に突き動かされるように、シランはもじもじと指先を弄った。 (……なんなんでしょうか、この空気。不気味ですね) サンがそう内心で毒づいたとき、不意に隣に「彼」が現れた。 薔薇をくわえ、不自然なまでに鍛え上げられた肉体を晒した半裸の男。怪人キャンバス男である。 「フッ……運命の赤い糸が、二人の魂をこの館に繋ぎ止めたというわけか。実に情熱的な展開だと思わないか、マドモアゼル!」 (誰ですかコイツ……。いい加減に消えてください) サンは極めて冷静に、心の中で彼を切り捨てた。 さらに追い打ちをかけるように、頭の中で姉・ヤンの陽気な幻聴が鳴り響く。 『あ~ん! 運命の出会いじゃない☆ 青春なのね~☆』 (うるさいです。静かにしてください) 混乱するサンの内心を余所に、シランは意を決したように顔を上げた。 彼女の表情は真剣だった。何か、この家に留まるサンに、どうしても伝えなければならない重大なことがある。切迫した焦燥感が、彼女の小さな肩を震わせていた。 「あのね、あなたに……あなたにだけは、絶対に伝えておかなきゃいけないことが……っ!」 シランが身を乗り出す。その瞳には、悲しみと、警告と、そして切実な願いが混在していた。 サンも、わずかに眉をひそめて耳を傾ける。静寂が張り詰め、決定的な言葉が紡がれようとした、その時。 「…………えっと」 シランが、ぽかんとした顔になった。 「……あれ? なに言おうとしたんだっけ」 「…………はい?」 「忘れちゃった! えへへ、ごめんね!」 先ほどまでの陰鬱な空気はどこへやら。シランはいつものように、ふわりと無邪気な笑顔を浮かべた。 あまりにも唐突な忘却に、サンは呆れ果てて深い溜息をつく。 「……時間の無駄でしたね。あなたの脳内メモリは相当に容量が少ないようです」 「えー!ひどいよあなた! でも、忘れちゃったなら、また明日思い出せばいいよね!」 そんな会話を交わしていると、テラスの扉が静かに開き、一人の少女が姿を現した。 シランの親友であり、小動物のような臆病さを纏ったユナだ。 「し、シランちゃん……。あの方も……。えっと、夕飯が出来たから、戻ってきていいよって……アドニス先生が……」 ユナは恐る恐る、サンの様子を伺いながら告げた。 シランは「わーい!」と声を上げ、サンの腕に飛びつく。 「行こうあなた! お腹ペコペコだよ!」 導かれるままに食堂へ向かう。 扉を開けると、そこには温かなオレンジ色の光と、食欲をそそる料理の香りが満ちていた。 「おかえりなさい。サンさん、ゆっくり休めそうでしょうか」 黒髪を穏やかに揺らし、心優しい紳士の笑みを浮かべた院長のアドニスが迎えてくれる。 その隣では、最年長のフォルスが静かに会釈し、腕白な少年グラスが「おー!サン、また明日も稽古に付き合ってよ!」と賑やかに騒いでいた。 十数人の孤児たちが、既に席について待っている。 彼らの顔はどれも明るく、裕福ではないながらも、ここには確かな幸福が満ちていた。 「あっちの席、空いてるよ!」 シランに促され、サンは席に着いた。 目の前には、質素ながらも丁寧に作られた温かいスープとパン。 「……いただきます」 サンが端的にそう言い、スプーンを口に運ぶ。 ふわりと広がる出汁の味に、張り詰めていた緊張が少しだけ解ける。 「おいしいね、あなた!」 「……まあ、合格点です」 隣でシランが嬉しそうに笑っている。 時折、彼女がふと遠くを見るように、寂しげな表情を見せたことにサンは気づいたが、それを深く追及するほどサンは好奇心旺盛ではなかった。 (……まあ、いいでしょう。しばらくの間、ここをアトリエ代わりにしても) 姉の幻聴がまた『お似合いじゃない☆』と騒ぎ、キャンバス男が『愛の晩餐だ!』と身振り手振りで盛り上がっている。 (本当に、誰かこの二人を連れて行ってください) そう思いながらも、サンは静かに食事を続けた。 外の深い霧は消え、夜の帳が静かに降りてくる。 賑やかな子供たちの笑い声に包まれながら、サン・バリュームは、この不思議な「叡智の家」での一夜を、静かに受け入れた。