

月明かりが窓から差し込み、室内を淡い青色に染めていた。 「叡智の家」の夜は深く、静寂が支配している。布団の中では、幼い子供たちが規則正しい寝息を立てていた。 サン・バリュームの隣では、シランと、その親友であるユナが、互いの体温を確かめ合うようにして深い眠りに落ちている。 だが、その静寂を切り裂くように、シランが不意に身を起こした。 動作に迷いはない。眠っている者がいるにもかかわらず、彼女の動きは妙に無造作で、機械的ですらあった。本来であれば、その衣擦れの音や気配でユナが目を覚ますはずだが、ユナは微塵も動かず、深い眠りの海に沈んだままである。他の部屋の子供たちも同様だ。家全体が、まるで時間を止められたかのような不自然な静寂に包まれていた。 シランは表情の見えない角度で、音もなく部屋を抜け出した。 (……心地よい静寂ですね。あ~ん! 今こそ最高の構図で描き上げるチャンスじゃない☆) 不意に耳をかすめる姉の幻聴に、サン・バリュームは薄らと目を開けた。 ジト目の銀髪サイドテールを揺らし、彼女は隣の布団を見た。そこにはユナだけが残されていた。 「……相手がいませんね」 端的に呟き、サンは作務衣を整えて立ち上がった。 ふと、視界の端に異変を感じる。そこには、薔薇をくわえた半裸の不審者――怪人キャンバス男が、何食わぬ顔で壁に寄りかかっていた。 「おやおや、お嬢さん。夜の散歩ですか? 実にロマンティックだ」 (誰ですかコイツ……) サンは内心で激しい拒絶を抱きながらも、慣れた様子でそれを無視し、外へと足を踏み出した。 夜の庭は、昼間の穏やかさとは打って変わって、冷ややかな空気が漂っていた。霧が庭の境界線で蠢き、まるで生き物のように建物を囲んでいる。 そんな中、茂みの陰から、おどおどとした足取りで一人の少女が姿を現した。ユナだった。 「……あ、あの……! お前、見た? シランを、見た……?」 ユナの声は震えていた。小動物のような挙動で、視線は泳いでいる。 「ええ。今さっき部屋を出て行きましたよ。少しそこまで、という顔をしていました」 サンは淡々と答えた。しかし、ユナの反応は異常だった。 「……え? 今、出たの……? そんな……どうして……」 ユナの顔に、じわじわと焦燥感が広がっていく。彼女は呼吸を荒くし、まるで何日も前から相手を探していたかのような、絶望に近い表情を浮かべていた。 「おかしいです。あなたは確かに、私が部屋を出るまで隣で眠っていたはずです。それに、相手が消えてからまだ数分しか経っていません。なぜそんなに焦っているんですか?」 「だって……だって! もう、ずいぶん前から……シランがいないんだもん! ずっと、ずっと探してたのに……!」 矛盾している。 サンが部屋を出るまで、ユナは確かに眠っていた。だが、ユナは自らの矛盾に気づいていない。ただ、親友を失った喪失感だけが、彼女の心を支配していた。 (……不気味ですね。この家の空気、何か拭えない違和感があります) 「あ~ん! こんな不穏な空気こそ、墨で塗りつぶしちゃいたいわね~☆」 「うるさいです。聞こえません」 サンは幻聴を切り捨て、ユナを連れて夜の庭を歩き始めた。 足元では、湿った草の匂いと、どこからか漂う古い紙のような香りが混ざり合っている。ユナは時折、後ろを振り返っては、霧の中に誰かが潜んでいないかを確認していた。 「シラン……どこに行ったの。ねえ、お前、何か気づいたことない?」 「特に。ただ、この庭の構造が少し不自然だとは思います」 二人が辿り着いたのは、昼間にシランと腕白な少年グラスと共に探索した、あの地下室への入り口だった。 昼間は好奇心に満ちた冒険の場所だったそこが、今は底なしの闇を湛えた口のように、二人を待ち構えていた。 サンがふと、足元の地面に目を落とす。 月光に照らされていたのは、小さく、鮮やかな青い色。 「……これは」 そこに落ちていたのは、シランがお気に入りとして常に身につけていた、あの青い蝶の髪飾りだった。 丁寧に結い上げられていたはずの髪から、強引に引きちぎられたかのように、それは冷たい土の上に転がっていた。 「あ……」 ユナが小さく悲鳴を漏らした。 髪飾りの主であるシランの姿は、そこにはない。 ただ、地下室へと続く暗い階段の底から、冷たい風が吹き上がってきて、二人の足元をなでた。