

湿り気を帯びた冷気が、肌を刺す。 地下室の隠し穴に降り立ったサン・バリュームは、龍髭の巨大毛筆を杖のように突き、隣で震えるユナの肩を意識せずとも抱き寄せた。 梯子を降りきった先、闇の奥にぽつねんと灯る灯りがあった。 そこは、温かな孤児院の風景とはかけ離れた、無機質で不気味な空間だった。 「……ひっ、あ、あそこに……」 ユナが指差した先。石造りの質素な寝台に、あの心優しい院長、アドニスが横たわっていた。 そしてその傍らには、昼間にサンが遭遇した穏やかな女性――スペア・アルファが立っていた。 サンは反射的に筆を構えたが、奇妙な感覚に襲われる。 そこに「存在」しているのに、干渉できない。まるで映画のスクリーンを眺めているかのような、絶対的な隔絶。 (誰ですかコイツ……) サンの背後で、いつの間にか現れた薔薇を咥えた半裸の不審者――怪人キャンバス男が、にやにやと不気味な笑みを浮かべて頷いている。 サンは内心で激しい嫌悪感を抱きながら、目の前の光景に凝視した。 スペアが、ゆっくりと目隠しを外す。 露わになったその眼窩には、眼球が存在しなかった。ただ暗く、底が見えない虚無が口を開けている。 彼女は、手の中に握っていた「何か」を、迷いなく自らの空洞へと嵌め込んだ。 それは、どろりとした生々しい、人間の眼球だった。 「…………」 スペアは微塵も表情を変えず、得たばかりの視界から何かを読み取ろうとする。 その瞬間、サンは気づいた。 寝台のアドニスの顔に、空白があることに。 院長の片目の眼窩は空洞であり、そこから抜き取られた眼が、今スペアの瞳となって彼女の内で光っていた。 「あ……あぁ……っ」 ユナが絶望に染まった声を漏らす。 スペアは淡々と、まるで機械的な作業をこなすように、傍らの瓶から精巧に作られた義眼を取り出した。そしてそれを、アドニスの空いた眼窩へ、慈しむように、あるいは廃棄物を処理するように、静かに嵌め込んだ。 その直後。 空間に激しいノイズが走った。 現実がひび割れるような視覚的不協和音と共に、スペアの姿が掻き消える。 静寂が戻った。 だが、それは安息ではない。 (あ~ん!不潔な光景ね~☆) 耳元で、不在であるはずの姉・ヤンの幻聴が、おどけた調子で囁く。 サンは眉をひそめ、筆を握る手に力を込めた。 ドクン。 心臓を叩くような音が響いた。 寝台に横たわっていたアドニスが、ゆっくりと、ゆらりと、重力に抗うように起き上がった。 その顔は、サンが知っている「先生」ではなかった。 新しく嵌められた義眼が、鈍い光を放っている。 そこには、慈愛も、悲しみも、怒りさえもなかった。 ただ、空っぽの器に詰め込まれた冷徹な意思だけが、サンとユナを射抜いていた。 「…………」 感情を一切排除したその眼差しに、サンは背筋に冷たいものが走るのを感じた。 目の前にいるのは、もう彼らが慕っていた心優しい魔導師ではない。 何らかの「実験」を完遂し、書き換えられた、異質な何か。 緊迫した空気が、地下室の酸素を奪っていく。 サンはジト目のまま、鋭い視線でその「化け物」を見据えた。