

静寂が、すべてを塗り潰していた。 つい先ほどまで、耳を劈くような絶叫と、肉を裂く不快な音、そして崩落する世界の轟音が渦巻いていたはずだった。しかし今、龍之介の周囲にあるのは、ただ冷たく澄んだ夜の空気だけである。 足元には、かつて少女であった「何か」が、その形を失って消えていった。 龍之介の視界は、生まれ持った時から白濁した闇に包まれている。彼にとっての世界は色を持たず、ただ風の揺らぎ、土の匂い、そして相手の鼓動という「震え」によって構成されていた。だが、今この瞬間の静寂こそが、彼にとって何よりも雄弁に、一つの生の終焉を物語っていた。 龍之介は静かに仕込み杖を収め、深く、長い吐息を漏らした。 「……ふぅ。長い夜であったな、君」 独り言は、誰に届くこともなく夜霧に溶けていく。 彼の掌には、まだ微かな熱が残っていた。それは、彼が砕いた「進化の核」という名の絶望の残滓。異形の姿となって彼に襲いかかったシラン。その内側に囚われていた、あまりに小さく、あまりに脆い少女の魂。 彼女が作り出した、あの穏やかな「叡智の家」。 霧の向こうに現れた、陽だまりのような孤児院。そこで彼を招待し、天真爛漫に笑い、昼下がりを共に過ごしたシラン。彼女の足取りは軽やかで、話し方は子供のようにふわふわとしていた。龍之介は目が見えないが、彼女の心の輝きだけは、肌で感じることができた。 けれど、その光はすべて、残酷な嘘の上に築かれた砂上の楼閣だった。 本当の家は、魔女の実験場となり、地獄のような光景の中で焼失した。 シランは、その絶望から逃れるために夢を紡いだ。自分を怪物に変えた運命を忘れ、傷つけ合わせた罪を塗り潰し、ただ「幸せだったあの日の続き」を演じ続けた。 龍之介は、ゆっくりと膝をついた。 老いた身体に、心地よい疲労が押し寄せる。元傭兵として数多の戦場を渡り歩いた彼にとって、死は日常の風景に過ぎなかった。だが、今回の「斬撃」は、単なる敵を屠るためのものではなかった。 それは、救いだった。 彼女が最後に漏らした、震えるような願い。 「また、夢の続きが見たいな」という、あまりに切ない、幼い祈り。 (君が望んだのは、安らかな眠りであったろうな) 龍之介は、天を仰いだ。白濁した視界の向こうに、夜空の星があるのかさえ彼にはわからない。だが、頬を撫でる風が、どこか優しく感じられた。 ふと、足元に何かが触れた。 指先を伸ばすと、そこにはひらりと、一枚の青い蝶の飾りが残されていた。 異形の肉体も、超越者の核も、すべては露のように消え去ったが、彼女が夢の中で大切にしていた、その象徴だけが遺されていた。 龍之介は、その蝶をそっと掌に乗せ、目を閉じた。 「……わしのような古びた男に、君の最期を看取らせるとはな。不器用な生き方だったが、君の心は、最後まで美しい夢を諦めていなかった」 彼は、彼女が抱えていた孤独を思う。 誰にも理解されず、怪物として世界に拒絶され、それでも誰かと笑い合いたいと願った少女。その絶望の深さは、彼が戦場で見てきたどんな悲劇よりも深く、鋭かった。 けれど、これでいい。 鎖は断ち切られ、夜は明ける。 龍之介はゆっくりと立ち上がり、蝶の飾りを丁寧に、大切に懐へしまった。 彼にとって、これは報酬ではない。ただの、記憶の栞である。 「さて、帰るとしようか」 彼は再び、杖を突き、静かに歩き出した。 足元の落ち葉がカサリと鳴る。森の奥から、獣の遠吠えが聞こえ、夜の静寂を切り裂いた。だが、もう恐れるものは何もない。 彼が森を抜ける頃、地平線の向こうから、薄い紫色の光が差し込み始めた。 夜の帳がゆっくりと捲り上げられ、冷たい空気の中に、温かな陽光が混じり始める。 霧が晴れ、世界が本来の色を取り戻していく。 龍之介には、その色彩は見えない。 だが、肌に当たる太陽の熱が、彼女が夢見た「あの日の陽だまり」と同じ温度であることを、彼は確かに感じていた。 昇りゆく朝日に照らされ、龍之介の背中は静かに遠ざかっていく。 長い悪夢は終わり、世界に、静かな夜明けが訪れた。