

重苦しい沈黙が支配する地下通路。壁に染み付いた黴の臭いと、どこからか漂う焦げた肉の焼けるような異臭が、鼻腔を突き刺す。 サン・バリュームは、作務衣の袖を軽く払いながら、隣で震える少女、ユナの肩をそっと支えていた。ジト目で前方を凝視する彼女の視線の先には、古びた鉄製の扉がある。 (……最悪の気分です。空気も、状況も、すべてが不快極まりない) 心の中で毒づくサンの耳に、場違いに明るい姉・ヤンの幻聴が響く。 『あ~ん!地下室デートなんて、若者の特権じゃない☆』 (うるさいです。誰がこの絶望的な空間でデートなんてすることを。死んでください) 「ひっ……うう、シランちゃん……どこにいるの……っ」 ユナがおどおどとした口調で呟く。小動物のように身を縮めた彼女は、親友であるシランへの不安に押し潰されそうになっていた。しかし、サンは冷静だった。冷静というより、この不条理な状況に対する諦念に近い。 そんな彼女の背後に、いつの間にか「それ」が立っていた。 薔薇を咥え、不必要なまでに筋肉質な半裸の男——怪人キャンバス男が、情熱的な視線でサンを見つめている。 「ふっ……運命の扉が開こうとしているね、マドモアゼル」 (誰ですかコイツ……。本当に、どこから湧いてくるんですか。警察に突き出したい) サンは無視して、重い扉をゆっくりと押し開いた。 ギィ……という不快な金属音が静寂を切り裂く。 部屋の中は、殺風景という言葉すら生ぬるい、ただの「檻」だった。 そこに、彼女はいた。 紫色の長い髪を乱し、床に蹲る少女。シラン。 昼間、テラスで無邪気に茶会を催し、サンを快く迎え入れてくれたあの天真爛漫な少女の面影は、そこにはなかった。 シランはサンやユナの存在に気づいていない。ただ、ただ、激しく肩を震わせて泣いていた。 「ごめんなさい……ごめんなさい……っ! 違うの、私は、そんなこと……!」 絞り出すような悲鳴に近い謝罪。その小さな手が、固く握りしめていたのは、血に汚れた白っぽい布切れだった。 サンは静かに部屋に足を踏み入れる。 視界に飛び込んできたのは、惨状だった。 部屋の中央にあった唯一の寝台は無残に破壊され、寝具は引き千切られている。壁には鋭い爪で引っ掻いたような深い溝が刻まれ、床に転がっているのは、肉を食い破った痕跡のある拘束具の残骸。 そして、冷たい石畳の上に、どろりと広がったどす黒い血溜まり。 「シラン」 サンが短く名前を呼ぶ。その声に、シランがビクリと身体を跳ねさせた。 ゆっくりと顔を上げた彼女の瞳からは、光が消えていた。あんなに好奇心に満ちていたはずの瞳は、深い絶望と、得体の知れない恐怖に塗り潰されている。 彼女の傍らには、お気に入りの青い蝶の髪飾りが、虚しく転がっていた。 「……あ、……サン……さん……?」 シランの声は掠れていた。彼女は震える手で、握りしめていた布切れを床に落とした。それは、誰かの衣服の一部のように見えた。 「シランちゃん! よかった、無事だったんだね!」 ユナが安堵に声を上げ、彼女に駆け寄ろうとした。しかし、シランは拒絶するように、激しく首を振った。 「来ないで! 近寄らないで!!」 絶叫。そのあまりに鋭い拒絶に、ユナが足を止める。 シランは再び蹲り、顔を覆って号泣し始めた。その姿は、まるで自分という存在に耐えられないかのように、身体を丸めて縮こまっている。 「違うの……私は、私じゃないみたいだった……! 暗くて、冷たくて、頭の中で誰かが笑ってて……っ!」 (……状況からして、あの魔女アルファの仕業でしょうね。実に趣味が悪い) サンは冷淡に分析しながらも、胸の奥に言いようのない不快感を覚えた。 芸術を志す者として、この「壊された少女」という構図は、あまりに醜悪で、救いがない。 「いいから、落ち着いて説明してください。何があったんですか」 サンの端的で辛辣な問いかけに、シランはゆっくりと顔を上げた。 頬を伝う涙が、血溜まりへと滴り落ちる。 彼女は、信じられないほど絶望的な微笑を浮かべ、震える唇を開いた。 「……私が」 その声は、地底から響く嘆きのようだった。 「私が、ユナを……」 シランの瞳から、大粒の涙が溢れ出す。 「……ころした」 一瞬、時間が止まった。 あまりに突拍子もない、そして残酷な告白。 サンは、隣にいるはずの少女を思い出し、反射的に視線を横へ向けた。 「……?」 そこには、誰もいなかった。 つい先ほどまで、不安げに、けれど親身にシランを心配していた少女の気配が、完全に消え失せていた。 静まり返った地下室に、シランの嗚咽だけが、絶望的に響き渡っていた。