

重い鉄の扉が、耳を劈くような金属音を立てて開いた。 地下実験施設の最深部。そこは、もはや「家」などという温もりのある言葉が似つかわしくない、冷徹な魔術的拘束の檻だった。壁一面に刻まれた複雑な術式が青白く明滅し、空気に混じって焦げ付いた鉄と絶望の匂いが鼻をつく。 サン・バリュームは、手にした龍髭の巨大毛筆を杖代わりに、ゆっくりと部屋の奥へと足を進めた。作務衣の裾が冷たい床に擦れる。彼女のジト目は、目の前にある「それ」を捉えていた。 部屋の中央。幾重にも張り巡らされた鎖と、物理的な楔。そして逃れられぬ魔力の枷に繋がれ、うずくまっている「何か」がいた。 (……誰ですかコイツ……) ふと、サン・バリュームの視界の端に、薔薇を咥えた半裸の不審者——怪人キャンバス男が、何食わぬ顔で立っていた。彼はこの絶望的な状況にありながら、どこか舞台俳優のようなポーズで、静かに異形を見つめている。サン・バリュームは心底不愉快そうに眉を寄せたが、それ以上に、目の前の存在から漂う強烈な「シラン」の気配に、胸の奥が締め付けられた。 サン・バリュームが、恐る恐るその異形に近づき、視線を合わせた。 その瞬間。 ガチリ、と鎖が鳴り、異形が顔を上げた。 かつての面影はほとんどない。しかし、その瞳に宿る深い悲しみだけは、あのふわふわとしていた少女、シランのものだった。 「……どうして、ここまで来てしまったの?」 掠れた声が、静寂に響く。それはもはや少女の声ではなく、幾つもの絶望が混ざり合った異質な響きだった。 サン・バリュームは、いつもの辛辣な口調を忘れ、ただ呆然と立ち尽くした。彼女の頭の中で、姉ヤンの幻聴が「あ~ん! 悲劇のヒロイン風じゃない☆」と軽薄に囁いたが、今はそれさえも心地よいノイズに感じられた。 「……シラン、さん。説明してください。あの家は、ユナさんは、一体どうなったんですか」 サン・バリュームの声は低く、端的に、けれど隠しきれない動揺を含んでいた。 異形となったシランは、自らを縛る鎖を弱々しく揺らし、力なく笑った。 「この世界は、全部嘘。あの温かい家は、もうどこにもないわ」 言葉の一つひとつが、冷たい雨のように降り注ぐ。 「みんな死んでしまった。ユナも死んだ。……私が殺したの」 サン・バリュームの心臓が跳ねた。 目の前の怪物は、かつて自分を歓迎し、お茶会に誘い、無邪気に笑いかけてくれた少女だ。その手が、親友であるユナを、そしてこの家のすべてを奪ったというのか。 「見られたくなかった。こんなに醜い姿を……受け入れられなかった。こんなに残酷な現実を」 シランの独白は止まらない。それは告白であり、同時に自分自身への呪詛でもあった。 「だから全てを闇で隠した。夢だと思うことにした。全て忘れたフリをして、夢と現実を入れ替えた……。たくさん、たくさん、殺したくせに」 絶望に塗り潰された後悔。 サン・バリュームは、筆を握る手に力を込めた。彼女は芸術家だ。嘘も、塗り潰された真実も、色彩の裏側に隠された感情も、誰よりも敏感に感じ取ることができる。シランが作り出した「温かい家」という偽りの水墨画が、今、目の前でボロボロに剥がれ落ちていく感覚があった。 「……最低ですね。嘘で塗り固めた世界で、一人だけ心地よく眠っていたなんて。画家として、そういう不誠実な構図は認められません」 突き放すような言葉。けれど、その声は震えていた。サン・バリュームは、シランの孤独に、触れてしまった。 その時だった。 ガキンッ!! 凄まじい衝撃音と共に、シランを拘束していた重厚な鎖が、内側から弾け飛んだ。物理的な拘束も、魔術的な封印も、彼女の絶望という名の魔力の前では、もはや意味をなさなかった。 自由になった異形が、ゆっくりと立ち上がる。その背後から溢れ出す闇が、部屋の壁を、床を、そして現実を浸食し始めた。 「もうすぐ、夜が来る」 シランの呟きと共に、世界が歪み始めた。 天井が溶け、壁が液状化し、心地よかったはずの「叡智の家」の記憶が、どろどろとした黒い絵具のように流れ出す。 「この夢も、溶けてなくなる」 嘘で塗り固められた世界が、崩壊していく。 サン・バリュームは足元の床が消えかかるのを感じ、思わず後ずさった。視界の端では、怪人キャンバス男が寂しげに薔薇を散らしている。 異形の姿をしたシランは、最後にもう一度だけ、かつての少女のような、悲しげで優しい眼差しをサン・バリュームに向けた。 「ここから逃げて。もう……誰も殺したくないから」