

世界が、溶けていた。 飴細工のように歪んだ壁がどろりと垂れ、天井からは記憶の残滓のような黒い霧が絶え間なく噴き出している。かつて「叡智の家」と呼ばれた場所は、今や自己逃避という名の醜悪な嘘で塗り固められた、巨大な胃袋のような空間へと変貌していた。 最深部の冷たい空気の中、シランは絶望的な微笑みを浮かべていた。彼女の告白——ユナを殺したこと、そしてここがすべて彼女が作り出した幻であるということ。その言葉が引き金となり、世界の整合性は完全に喪失した。 「ここから逃げて。もう誰も殺したくない」 シランの細い声が響いた瞬間、足元の床が底なしの闇へと口を開けた。 サン・バリュームは、その光景をジト目で眺めていた。銀色のサイドテールが、不自然な方向に吹き付ける黒い風に激しくなびく。彼女の手には、姉のヤンから譲り受けた龍髭の巨大毛筆が握られていた。 (……最悪です。本当に最悪。休暇が地獄の脱出劇に変わるなんて、脚本家の正気を疑いますね) 内心で毒づくサンの背後に、唐突に不快な気配が混ざった。 「ふふっ、絶望的な状況こそが最高のキャンバスだと思わないか? お嬢さん」 薔薇を咥えた半裸の男——怪人キャンバス男が、いつの間にか隣に立っていた。 (誰ですかコイツ……。というか、なぜこの状況で余裕なんですか) サンは彼を完全に無視し、崩落する廊下へと駆け出した。だが、逃げ道はもはや直線ではなかった。右に曲がれば天井が床になり、左へ進めば壁が口を開けて叫び声を上げる。空間が狂っていた。 「あ~ん! サンちゃん、そんなところで呆然としてたら、お絵描きする前に食べられちゃうじゃない☆」 頭の中で、引退して漫画家見習いになった姉、ヤンのふざけた幻聴が響く。 「うるさいです。集中してください」 サンは虚空に向かって短く言い放つと、龍髭の筆を力強く振るった。 【一筆入魂】 空中に躍動感溢れる巨大な水墨画の「壁」が描き出される。それは物理的な質量を持ち、背後から迫り来るどろどろとした闇の奔流を一時的に遮断した。しかし、安堵する暇はない。 「ギギ……アアア……」 闇の向こうから、顔のない孤児たちが這い出してきた。彼らはかつての穏やかな面影を失い、皮膚は剥がれ、ただ「誰かに触れたい」という飢餓感だけを抱えた異形と化していた。 「……不潔ですね。近づかないでいただけますか」 サンは冷徹に言い放つと、小毛筆を取り出し、最前列にいた孤児の額に素早く、簡素な「×」印を描き込んだ。 【落書き】 「えっ?」 一瞬の困惑。その隙に、サンは巨大毛筆に魔力を注ぎ込む。 【画竜点睛】 描かれた水墨画の壁が、突如として生命を宿した。画中の龍が咆哮し、実体となって闇の軍勢をなぎ払う。凄まじい衝撃波が空間を揺らし、顔のない子供たちは悲鳴さえ上げられぬまま、黒い霧へと還元されて消えていった。 だが、本当の恐怖はそこからだった。 背後から、足音が聞こえる。 ゆっくりと、だが着実に。 ドクン、ドクンと心臓の鼓動のようなリズムを刻みながら、すべてを塗り潰す絶対的な「暗闇」が迫っていた。それはもはや個体ではなく、この世界そのものの意思であり、シランという少女が抱えた絶望の集積だった。 (……逃げ切れる確率は、限りなくゼロに近いですね) サンの額に冷や汗が流れる。視界が歪む。認知機能が蝕まれ、自分が今どこにいて、何のために走っているのかさえ曖昧になり始めていた。足元の床が液体のように波打ち、彼女の足を絡め取ろうとする。 「おっと、足元に気をつけろよ。美しく散るのもいいが、まだ描き切りたい絵があるだろう?」 キャンバス男が、相変わらずの調子で囁く。 (本当に、消えてくれませんかね、あなた) サンは奥歯を噛み締め、最後の一歩を踏み出した。 目の前に、歪んだ光の裂け目が見える。そこがこの悪夢の出口、現実へと繋がる唯一の境界線だ。 背後の暗闇が、巨大な顎を開けて彼女を飲み込もうと跳ね上がった。冷たい絶望が、彼女の項に触れた瞬間——。 「っ……!」 サンは全魔力を込めて、足元の空間に巨大な「門」を描き殴った。 現実への執着。芸術への矜持。それらすべてを筆先に込め、強引に空間を切り裂く。 激しい閃光と、世界の崩壊音が同時に響いた。 * ふっと、空気が変わった。 肺に流れ込んできたのは、湿った土と木の葉の匂い。 耳に届くのは、不気味な静寂を破る夜鳥の声。 サン・バリュームが目を開けると、そこは元の森だった。 見上げれば、月が冷たく照らしている。 振り返った場所には、もう何もなかった。霧に包まれた「叡智の家」など、最初から存在しなかったかのように、そこにはただ静まり返った森が広がっているだけだった。 「……終わった。んですね」 サンはどっと疲れ果て、その場に膝をついた。作務衣は汚れ、龍髭の筆もボロボロだ。 (本当に、最低の体験でした。二度と御免です) しかし、安堵に浸る時間は与えられなかった。 サンの背後。 何もないはずの地面から、どろりと黒い液体のようなものが染み出していた。 それはゆっくりと盛り上がり、形を持たない蠢きとなって、彼女の背後で静かに、しかし確実に膨れ上がっていく。 自らの夢に囚われ、逃げ場を失った異形が、境界を越えてこちら側へと這い出してきたのだ。 サンはゆっくりと立ち上がり、再び筆を握り直した。 ジト目の瞳に、諦めと、そしてわずかな戦意が宿る。 「……おまけの時間なんて、私の予定にありませんよ」 背後で蠢く、名もなき暗闇を凝視しながら、サン・バリュームは静かに、そして辛辣にそう呟いた。