

静寂が、すべてを塗りつぶした。 激しい衝突と、絶望的な叫び。そして、耳を劈くような核の崩壊音。 それらすべてが嘘だったかのように、森には不自然なほどの静寂が降りていた。 サン・バリュームは、愛用の巨大な毛筆をゆっくりと地面に下ろした。作務衣の裾は汚れ、銀色のサイドテールは乱れている。ジト目の視線の先には、もはや何も残っていなかった。 かつて少女の姿をしていたもの。そして、制御不能な絶望となって襲いかかってきた異形の残滓。 そのすべてが露と消え、ただ一点。 冷たい地面の上に、鮮やかな青い蝶の髪飾りだけが、ぽつんと取り残されていた。 「……馬鹿みたいに、派手な終わり方ですね」 サンがぽつりと呟く。その声は、いつものように端的に、そして少しだけ突き放すような冷たさを孕んでいた。けれど、筆を握る指先は微かに震えている。 彼女の傍らでは、いつもの不審者――薔薇を咥えた半裸の怪人キャンバス男が、珍しく口を閉ざしていた。彼はただ静かに、消え去ったシランがいた場所へ向けて、深く、長い黙祷を捧げていた。 (あ~ん! サンちゃん、そんな顔しちゃダメじゃない☆) 頭の中で、姉であるヤンの軽薄な幻聴が響く。いつもなら「うるさいです」と切り捨てるところだが、今のサンには、そのとりとめもない声が不思議と心地よかった。 (可哀想な子だったのね~☆ 最後にあなたに救ってもらえて、きっと幸せだったと思うわよ☆) 「……幸せだなんて。あんなに醜い格好で、あんなに泣きながら死んでいったのに」 サンは自嘲気味に目を細めた。 思い出すのは、霧の向こうに見えた穏やかな孤児院。自分を屈託のない笑顔で招待してくれた、ふわふわとした少女。 昼下がりの陽だまりの中で交わした、なんてことのない会話。 あの時のシランの瞳にあったのは、本物の光だったのか。それとも、絶望から目を逸らすために作り上げた、精巧な偽物だったのか。 「全部、夢だったんですか」 答えは返ってこない。 けれど、サンは知っている。あの夢の中で、シランがどれほど必死に「幸せ」にしがみついていたかを。 魔女アルファによる実験、変わり果てた身体、失われた日常。 耐えられなかった。受け入れられなかった。 だから彼女は、あなたという訪問者を招き入れ、もう一度だけ、あの温かな「叡智の家」を再現したのだ。 罪を忘れ、悲しみを塗り潰し、ただ一人で、終わりのない夜を彷徨うために。 サンはゆっくりと膝をつき、地面に落ちていた青い蝶の髪飾りを拾い上げた。 指先に触れる冷たい感触。けれど、そこには確かに、誰かが生きていた証が刻まれている。 「……あなたの絵は、あまりに出来過ぎていて、退屈でしたよ」 サンは独り言のように、シランへ語りかけた。 画家見習いとして、彼女は知っている。完璧すぎる風景には、魂が宿らないことを。 けれど、最後に見たあの絶望の表情と、消え際に見せた安堵の微笑み。 それだけは、どんな名画よりも残酷で、そして美しく、サンの心に深く刻み込まれた。 (いいじゃない☆ 最高のラストシーンだったわよ、サンちゃん☆) 姉の幻聴が、いたずらっぽく囁く。 「……うるさいです。私はただ、掃除をしただけです」 サンは立ち上がり、髪飾りを丁寧に懐にしまった。 彼女は振り返ることなく、歩き出す。背後ではキャンバス男が、名残惜しそうに一度だけ肩をすくめ、彼女の後に続いた。 森の奥から、ゆっくりと光が差し込み始めていた。 夜の帳がゆっくりと上がり、深い群青色が淡い紫色へ、そして柔らかな黄金色へと溶けていく。 地平線の端から、本物の夜明けが訪れる。 それは、誰かが作り上げた偽りの夢ではない。 残酷なまでに現実で、けれど、冷たい風が頬を撫でる心地よい朝だった。 サン・バリュームは、昇りゆく太陽をジト目で眺め、小さく一つ、溜息をついた。 「さあ、帰りましょう。姉さんがまた、漫画のネタに困って騒いでいる頃です」 彼女の足取りは軽く、けれどその心中には、消えない青い蝶が一匹、静かに舞っていた。 夜が明けた。 長い悪夢は終わり、世界は再び、ありふれた日常へと戻っていく。