

静寂が、全てを塗り潰していた。 激しい火花と絶叫、崩壊する世界の轟音。それら全てが嘘だったかのように、辺りは不気味なほどの静寂に包まれている。カナンが目の前で見たのは、かつて少女であった「何か」が、光の粒子となって夜の闇に溶けていく光景だった。 シランの胸に宿っていた、醜くも悲しい進化の核。それを砕いた瞬間、彼女を縛り付けていた呪縛は解かれ、その魂は深い安堵と共に消滅した。 後に残されたのは、主を失い、力なく地面に落ちた青い蝶の髪飾りだけ。 カナンは、呆然とそこに立ち尽くしていた。 彼の手はまだ熱く、不死鳥の炎が微かに揺れている。けれど、その心は冷たい喪失感に支配されていた。 「……行っちゃったね」 ぽつりと漏れた声は、誰に届くこともなく夜風にさらわれる。 カナンはゆっくりと膝をつき、泥にまみれた青い蝶を拾い上げた。指先に触れるそれは、ひどく冷たかった。 彼は、思い出していた。 霧の中から現れた、あの穏やかな「叡智の家」のことを。 そこでは、シランが天真爛漫な笑顔で彼を招待してくれた。彼女はふわふわとした口調で、まるで世界で一番優しい場所であるかのように、あの場所を語っていた。 (……あんなに楽しかったのに) 昼下がりの陽だまり。一緒に食べた甘いお菓子。シランが笑いながら話してくれた、他愛ない物語。 カナンにとって、それは本物の幸せだった。たとえそれが、絶望に耐えかねた少女が作り出した、残酷なまでの白昼夢だったとしても。 夜に急変した景色。傀儡となった院長アドニスの虚ろな瞳。燃え上がる家。 地獄のような光景の中で、シランが最後に告白した言葉が、耳の奥で何度もリフレインする。 『耐えられなかった。受け入れられなかった。だから私は夢に縋って、全てを忘れたフリをした』 彼女は、自分を怪物に変えた運命を、そしてその力で傷つけてしまった誰かの痛みを、ずっと一人で抱えていたのだ。 人懐っこい笑顔の裏側で、彼女はどれほどの孤独に震えていたのだろう。 どれほど、誰かに見つけてほしかったのだろう。 カナンは、自分の翼を広げた。 不死鳥の翼。誰かを癒やし、死した者を蘇らせる慈愛の力。 もし、この力が彼女の魂を繋ぎ止めることができたなら。もし、彼女の絶望を焼き尽くして、もう一度あの笑顔を連れてこられるのなら。 けれど、彼には分かっていた。 彼女が求めていたのは、生への執着ではなく、「解放」だったことを。 核を砕かれた瞬間の、あの憑き切りだった絶望が消え、心地よさそうに目を閉じた彼女の表情。それは、長い長い悪夢からようやく目覚めた子供のような、純粋な安堵だった。 「……いいんだよ。もう、痛くないもんね」 カナンは、そっと青い蝶の髪飾りに、温かな息を吹きかけた。 蘇生させることはできない。けれど、せめて彼女が最後に見た夢が、悲しい記憶ではなく、誰かと笑い合った温かい記憶であるように。 彼は、空を仰いだ。 深い闇に覆われていた森の天井に、わずかに白み始めた線が見え始めていた。 世界は、残酷なほどに静かに夜明けを迎えようとしている。 カナンはゆっくりと立ち上がり、手の中にあった青い蝶を、風に預けるようにそっと手放した。 蝶の飾りは、夜風に舞い、まるで本当に生きている蝶のようにひらひらと宙を舞い、やがて朝の光が差し込む方向へと消えていった。 「バイバイ、シラン」 その声は、幼くも、どこか誇らしげだった。 彼女が最後に願った「夢の続き」は、もうここにはない。けれど、彼女を救い出したこの温かな記憶だけは、カナンという不死鳥の心の中で、永遠に消えない炎となって灯り続けるだろう。 東の地平線から、ゆっくりと黄金色の陽光が差し込み、森の霧を白く塗り潰していく。 絶望に染まった夜が終わり、全てを包み込むような、眩い朝が訪れた。 カナンは、その光に向かって、静かに歩き出した。