

静寂が、すべてを塗りつぶしていた。 激しい衝突と、絶望的な叫び。そして、世界を裂くような一太刀が走り抜けた後、そこにはただ、ひどく冷たく、けれど透明な静寂だけが横たわっていた。 凛の目の前で、異形へと成り果てていたシランの身体が、粒子となってゆっくりと崩れていく。彼女の胸に埋まっていた、醜く脈打つ「進化の核」は砕け散り、彼女を縛り付けていた永い悪夢の鎖もまた、音を立てて弾け飛んだ。 「……あ」 凛の口から、小さく漏れたのは溜息のような、あるいは嗚咽のような音だった。 手にした刀、皇月をゆっくりと鞘に収める。金属が擦れる乾いた音が、残酷なまでに現実を突きつけていた。 足元には、かつて少女だったものの名残として、ただ一つの青い蝶の髪飾りが、ぽつんと取り残されていた。 凛は、その小さな飾りに視線を落とした。 相手の、シランという少女が最後に浮かべていた表情を思い出す。それは恐怖ではなく、底知れない安堵だった。すべてを奪われ、怪物にされ、それでも心だけは純粋な少女のままでいた彼女が、ようやく辿り着いた唯一の出口。それが、凛による「破壊」だった。 (……馬鹿だな、俺は) 凛は自嘲気味に呟き、空を見上げた。 幼い頃、親友に裏切られ、信じていた世界が崩れ去ったあの日の記憶が、胸の奥で疼く。以来、凛は自分を「大馬鹿者」だと定義し、眠いふりで孤独を隠し、他者を信じることを恐れて生きてきた。 けれど、目の前で消えていった少女は、彼よりもずっと深く、暗い孤独の中にいた。 夢という名の嘘に縋り、偽りの幸福に身を浸し、それでも消えない罪悪感に苛まれていた。彼女が作り出した「叡智の家」という穏やかな夢。そこで過ごした昼下がりの、陽だまりのような心地よさ。それがすべて、絶望から逃げるための脆い殻だったのだとしても。 凛にとって、その時間は決して無意味ではなかった。 料理下手な彼が不格好に振る舞おうとしたこと、人懐っこく笑いかけてくれた彼女の天真爛漫さ。それらは、冷え切った凛の心に、ほんの少しだけ灯った小さな光だった。 「……優しい人は、好きだ」 ぽつりと、誰に届くこともない言葉がこぼれる。 凛は、自分を裏切った者や、弱者を踏みにじる悪人を心から蔑んでいた。彼らにとって命などゴミ同然であり、奪われるにふさわしい。けれど、シランは違った。彼女は被害者であり、同時に迷子だった。 凛は、地面に落ちていた青い蝶の髪飾りを、そっと、壊さないように丁寧に拾い上げた。 手のひらに伝わる小さな感触。それは、彼女が確かにここに存在し、誰かに触れたがっていた証だった。 「……また、夢の続きが見たかったんだな」 彼女の最期の願い。ユナがいて、みんながいて、ただ笑い合えたあの日の続き。 叶うはずのない願いだ。もう、彼女を縛る肉体も、彼女を苦しめた核も、そして彼女が愛した偽りの家も、すべては灰となって消え去った。 けれど、凛の胸の中には、彼女が遺した「ありがとう」という言葉が、消えない残響となって鳴り響いていた。 凛は、静かに目を閉じた。 彼の中にあった、埋まらないはずの寂しさが、不思議と穏やかな悲しみに変わっていく。誰かを失うことは、痛みを伴う。けれど、その痛みこそが、彼が彼女という一人の人間を認め、心を通わせた証なのだ。 (おやすみ、シラン) 心の中で、名前を呼ぶ。 もう、誰もあなたを傷つけない。 もう、誰を傷つける必要もない。 暗い森に閉ざされていた長い夜は、いま、完全に終わった。 やがて、東の空から一筋の光が差し込んだ。 深い霧が晴れ、木々の隙間から、淡い黄金色の陽光が降り注ぐ。 夜が明ける。 それは、残酷なほどに美しい朝だった。 世界はいつも通りに動き出し、鳥たちが新しい一日を祝うように歌い始める。 凛は、拾い上げた蝶の髪飾りを大切にポケットに仕舞うと、ゆっくりと歩き出した。 振り返ることはなかった。けれど、彼の足取りは、来る前よりも少しだけ軽くなっていた。 孤独を抱えた少年と、悪夢に囚われた少女。 二人が交差した刹那の物語は、昇りゆく太陽に溶かされ、静かに幕を閉じる。 朝露に濡れた森の道。 そこにはもう、悲しげな鎖の音は聞こえない。 ただ、新しく吹き抜けた風が、春の訪れを告げるように、優しく凛の頬を撫でて通り過ぎていった。