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【九罪魔】焔狼/憤怒の魔物

※以下は戦闘勝利時、または戦闘が面倒な際にお読みください。 Nine Sins―Wrath 【憤怒爆発】 ああ、見るも無惨な虚しき者よ。 ああ、聞くも耐えれぬ欲望讃歌。 ああ、嗅ぐも嫌な人間至上。 ああ、これが私達を殺した者達の本性か。 ──────────────────────  それは正しく荒野、というに相応しい場所。  ほぼ剥き出しとなった大地を撫でる風が砂を舞い上げ、何処までも広がる青の空に一瞬の黄土色を混ぜる。その都度、背丈の低い乾いた草が靡く様に何処か寂寥感を覚えずにはいられない。  悠久の時間に幾度となく訪れた風雨の来訪は岩を奇妙な形に削り上げ、それらが遠方に点々とありながら、ここへ訪れた者へ長き歴史を語りかけている。  それら岩よりも遥かに遠く、空と陸の境目に屹立する赤茶けた山々はまるで“こなた”と“かなた”を隔てる境界線。実際にそんな事は無いのだろうが、そうした山々の存在があなたへ“ここが所詮は九罪の箱庭の一区画”に過ぎない事を思い出させていた。  やや小高い丘の上に出たあなた達は少しばかり視線を下に向けて、そこに広がる悍ましいモノを視界に捉える。  死。  そこにはただ死が広がる。  鼻がもげそうな腐敗臭。  それを更に風化させた死臭。それは臭いがほぼ消えているにも関わらず、嗅覚では感じられない“何か”があなたの脳へ死を刻み込んでくる。  それらの臭いの発生源は死体、それも人の。  それも大量のだ。  腐敗の度合いはバラバラ。  酷く腐って骨を剥きだしているものもあれば、まだ顔の判別がつくものまで様々。  老いも若いも、男も女も、関係なくそこに死体としてある。  ただ、一つ共通しているのは。  彼らが全身の何処かを強引に噛み千切られていたことか。  熊、いやそれよりも大きく、鋭い牙を生やした何かが“彼らをただ殺した”のだ。  食べもせず、ただ殺した。  その異常性に気付いたあなたは、彼らを殺した者がこの区画の主であると判断する。    しかし、区画の主は何処に居るのか。  これまで区画へ入ったと同時に九罪を宿した者達が出向いて来たが、今の所そのような気配は感じられない。死体に付けられた傷跡から見て区画の主を動物の類と見ている以上、縄張りへ不用意にも踏み入った自分達を襲いに来ても不思議では無いだろう。  或いはひどく警戒心が強いのか。  ならばこの死体は、区画へ踏み入った者へ立ち去ることを選ばせる警告代わりか。  いや、まさか。  あなたは周囲を見渡して、それらの考えが間違いであると認識していた。所々に古い血や肉片の残骸が微かに残っているのだ。  つまり、区画の主は踏み入った者を噛み殺し──小高い丘の下で意図的に集めていた。  まるで、こちらを敢えて挑発するような行為だ。  分かっていた事だが、これから相手をするのは“ただの獣”ではない。  とても賢い──ある種の人間臭さすら感じてしまう程の狡猾さを持った獣なのだ。 「──流石は韋編悪党から名指しで敵意を持たれる存在。僅かな証拠だけで、区画の主の性質を見極めるとは素晴らしい」  突如聞こえた女の声にあなたとロメルは身構える。だが声のした方向には数個の石が転がっているだけであった。  次の瞬間、何百枚もの紙──細長いそれは御札──が何処からともなく現れて竜巻に巻き込まれたかのような動きを見せる。それがやがて一斉に四方八方へ飛散したかと思えば、いつの間にか黒いスーツを着こなした白い面の女が立っていた。 「あなたは……」ロメルが目を丸くさせて女を見つめる。 「再び会いましたね、そう言えばあの時は名を名乗っていませんでしたね。“白面”と、ワタクシの事はそうお呼びください」  白い面をつけた女──白面はそう言うと慇懃無礼にも感じられる程に深いお辞儀を見せる。  白面、九罪の箱庭を造り出した張本人にして“韋編悪党”の一人。今まで様々な韋編悪党と出会ってきたあなただからこそ、白面が漂わせる“ただ者ならぬ”雰囲気を感じ取っていた。  韋編悪党という存在を生み出した“烏”やよからぬことを企む“エメラルドの大魔法使い”等の韋編悪党内でも上位の立場に該当する者、それがあなたが白面から感じた雰囲気だ。 「何故今、現れたのでしょうか? 九罪の箱庭の主である貴方が“この区画”の主を務めるのは役不足と思いますが」ロメルは警戒を緩めずに問う。 「嫌な物言いをしますね、あの烏を思い出すのでよしてください」  表情こそ見えないも、確実に不快な表情を浮かべているであろう白面。内ゲバ上等な韋編悪党、烏の本音はさておき白面は彼の事を蛇蝎の如く嫌っている事には間違いない。 「ワタクシがここに来たのは他でもない──我ら韋編悪党の敵たる“貴方”を一目見ておこうと思いましてね」  白面はあなたの方へ顔を向ける。 “私は珍獣でも何でもないけれどね”あなたは冗談で返す。  九罪の箱庭がまるで白面にとっての動物園かのように思えていた故の(ややブラック寄りな)冗談だ。  ただ白面の方はそんな冗談を鼻で笑うだけに留めた。 「成程、貴方も中々に興味深い。是非ともワタクシのコレクションの一つとして──防腐剤を喰らう身に堕としたい所ですが……」  白面の言葉を“意図的に遮るように”大きな咆哮が荒野一帯に響き渡る。聞く者の腹の底から恐怖をこみ上げさせる程の咆哮に、声の主の計り知れない憤怒。  数々の強敵と相対したあなたでも総毛立つほどの恐怖と憤怒が区画内に溢れ出し、何か巨大な生物が荒野を駆ける音があちらこちらから聞こえてくる。  咄嗟に周囲を見渡すも、音の主の姿は確認できない。  ただ何かが走った形跡が砂塵を巻き上げる光景が、荒野の至る所で確認できるのみ。  不可視の存在、いや違う。  時折視界に捉える巨大な黒影は凄まじい速度で接近してきている。 「ようやくお目覚めですか。眠りすら必要ないでしょうに必死に眠ることの何たる愚かさか」白面は呆れた様子。「忌々しいワタクシがいるせいでいつも以上におかんむりなのですね。お二方気張って下さいね、でないと────」  そう言いかけた白面の背後に巨大な影一つ。  白面が動く暇もなく、影は刃の如き爪を生やした太い前脚を容赦なく振り下ろし──彼女の半身をぐしゃりと潰した。 「……溜飲など下がる筈も無いのに、本当に無駄なことをしますね“焔狼”。人へ牙を剥いた愚かな狼の王よ」  半身を潰された白面だが、痛くも痒くもない様子。その理由は、地面と混ぜこぜになった筈の肉片が無いこと、そして残る身体から一切の流血をしていない事から予想が付く。 「最後の区画で待っていますよ、それではご健闘をば」  白面の身体が大量の御札へと変わり、そのまま霧散する。ある程度予想は出来ていたが、やはり幻影や分身の類を差し向けていたのだ。  だが、そんなことよりも、今は眼前の“彼”に集中しなければならない。周囲の空気が急速に熱せられ、灼熱の風が吹き荒ぶ中、あなたは目の前の“巨大な狼”を見据える。  大型の狼と言ってもその身体の巨大さは一般的な狼の範囲には収まらず、足から肩にかけての長さは平均的な人間の男性の身長よりも大きい。体高は見積もって二、三メートルはあるだろう。  全身を覆う黒い体毛は針金の様な鋭さ、子供程度なら丸飲み出来てしまう大きな口とそこに並ぶ鋭い牙。血の様におどろおどろしく、烈火の様に爛々とした赤眼。  その狼──焔狼がその赤眼であなたとロメルを睨みつけると、哀れで愚かな侵入者への死刑宣告と言わんばかりに激しく咆哮する。  まるで地の底から悪魔がやってくる足音もかくやの咆哮。絶え間ない怒りで満ちたその声は聴く者の心臓を握りしめるような感覚で、気を張っていなければ卒倒しかねない。 「……凄まじい憤怒の力です」  ロメルは一歩前に出る。  意識を持っていかれない様に気を張り詰めるだけで精一杯なあなたを、彼女の砂壁が守っていた。あなたには指一本触れさせない、そんな気概が今のロメルから感じられる。 “……ッ……そうだね。でも前に戦ったエトナの怒りとは毛色が違う。あれは己を奮起させる怒りだったけど、この怒りにあるのは憎悪だ” 「憎悪ですか?」ロメルは焔狼へ警戒しつつ尋ねる。 “そう憎悪だ。人間或いは人型の全てに対する憎悪。とても正当で、しかしあまりにも理不尽なまでの暴力的憤怒”  九罪の魔物達に共通しているのは、歪まされた物語の存在であるとあなたは知っている。だからこそ焔狼の憤怒をそのような言葉で称した。  彼が動物であること。  そして、自分達が目にした残虐にただ殺された人々。  正当だが理不尽なのだ。  彼を脅かしたのは他人であり、そして彼が殺したのもまた他人。  持って当然の怒りだが、向けてはならない怒りだ。 “やろうロメル。彼の怒りを止めなければ” 「はい」ロメルはあなたの目を見て頷く。  今までの侵入者とは何か違うあなたとロメルの姿に、焔狼は僅かな動揺を見せつつも再び激しく咆哮して炎を纏う。触れる者、近寄る者を拒む灼熱が地面を焼き、ごうごうと渦巻いて周囲を焼き尽くす。  怒り荒ぶる灼熱地獄、憎悪と憤怒を湛えし焔狼へあなたとロメルは同時に攻撃を開始した。  ──なんだ“こいつら”は?  焔狼は違和感を覚えていた。  ──なぜ“俺”を前にして怯えない?  屈強な前脚で地面を叩き、火柱をぶち上げる。  ──なぜ、そんな目ができる?  火柱をかわした二人。翼の女が砂を生み出して視界を遮る。  ──なんだその目は?  鋭敏な嗅覚で砂の中から吶喊してくるもう一人を察知する。  ──なんで“俺”を憐れむ目でみやがる?  巨体を軽々と飛び上がらせて退くも、女の砂が移動を阻む。  ──偉そうにするなよ二本足ッ! 「っ……何という火力。迂闊に近づけば消し炭になりますッ!」  生み出した砂が一瞬で焼き払われる光景にロメルは声を荒げつつあった。一瞬で飛翔可能な翼と距離を問わずに砂を操るロメルは焔狼と一定の間合いを保てるが、あなたは違う。  どうしてもロメルより、焔狼との距離は近くなりやすく、それ故に焔狼が放つ憤怒の火の温度を肌に感じられる距離にいなければならない。  ロメルの砂が的確にサポートをしてくれるとはいえ、この炎の温度はかなり堪える。触れても無いのに、炎が通り過ぎるだけで肌は(ジンジンと)焼きつける様な痛みが走る。  もっともあなたは、炎で焼き殺されるというより、憤怒と憎悪で燃やし尽くされる感じだな、と冷静な分析が可能な、出どころの分からぬ余裕を感じていたのだが。  恐らく、一歩間違えれば死が襲い掛かる極限の状況に、本能が冷静さを失わせない様に努めているのだろう。もしかすれば、嫉妬の区画で戦った黒獣将軍の言葉も糧になっているのかもしれない。 【迷えば間違い、間違えれば死ぬ】  一瞬も待ってくれない戦場だからこそ、冷静でなければならない。  逸れは焦れりに。  焦りは慌てに。  慌てれば迷い。  迷えば間違い。  間違えれば死ぬ。  何とも単純で、しかし筋の通った理論。  ロメルの成長と学びの為と思って共にした九罪の箱庭の道程は、どうやらあなた自身にも何らかの学びを齎していた。  だからこそ、この場で負ける訳にはいかなかった。  ロメルの砂に身を隠し、焔狼の連撃を掻い潜りながらあなたは再び攻勢に出る。  ──こいつら、なんだ?  自身の懐へと潜り込んできた奴を追い払うべく、岩をも噛み砕く顎を開く。  ──なぜ抗える? “俺”の怒りになぜ中てられない?  牙が風を切り裂く音が口内に渦巻くそれは死神の声に相似。だが奴は物ともせずに向かってくる。  ──“俺”の怒りの息の根を止めようってか?  奴の力強い攻撃が身体を強く打つも、堅い体毛と強靭な筋肉に阻まれたのか、痛みは感じない。  ──その思い上がりが“俺”に障りやがる……傲慢な二本足め、“俺”や同胞や他の生物を殺し尽くして頂点に立ちやがった忌々しい二本足め。  奴を焼き殺そうと炎を向けるも、翼野郎の砂が横やりを入れてくる。  ──殺しに殺したんだろ、だったらへんな翼共に殺されても文句はねぇだろうが。  怒りで理性を失い、最早暴走しているだけの攻撃。でたらめで無茶苦茶な連撃の隙を奴が目ざとく狙っている。  ──それが摂理だろ、自然の法則、生命が従うべき全て。なのに……なのに、なぜ抗うんだッ⁉ 「あなた様──今です」  ロメルの声が響く。  焔狼の攻撃に隙が生まれたからだ。元々憤怒に支配され暴走していただけの、杜撰な攻撃。近づくには難いが、近づけるだけの隙はあって当然。  焔狼の体毛と筋肉は正に鉄の鎧に近いが、数多の戦闘を経て来たあなたにとっては鎧を穿つ程度造作もない。  ロメルの砂に命を預け、こちらへ覆いかぶさろうとしてくる焔狼の心臓部へ研ぎ澄ました一撃を全力で叩きこむ。  鋭い攻撃が焔狼の肉を抉り、体毛を散らす。  手に感じる、確かな手応え。何か異様な力を放つモノが焔狼の体内にある感覚。  ぐらり、と揺れる焔狼の巨体。  勢いが弱まる炎。  勝ったか────いや、違う。  あなたは焔狼の体内が再び激しく燃え上がる温度を手に伝わる。 「まるで……火が再度点けられたように、焔狼が動き出した?」ロメルの口から衝いて出た言葉が響く。  ──これが再点火だ。  全身を怒りの炎が走る。  ──怒りの火は消えない、あの日は決して忘れない。  炎の中にチラつく記憶が怒りを更に燃やす。  ──“俺”は誰にも、誰にも、誰にもッ! 止められない!  全身を何かが覆ってくる。白い体毛が視界を横切る。  ──ああ、分かっている。分っている、我が愛よ。  白い体毛が笑う声が響き、それが怒りを支えてくれる。  ──殺してやる。全員殺してやる。喰らう必要はない、あの二本足共は殺すだけで充分だ。 “!──ロメル、見えた?” 「はい、しっかりと。彼の怒りの源が見えました」    あなたとロメルは焔狼が再び動き出した瞬間に現れた、白い毛の存在を確かに見た。それは既に消えてしまったが、恐らくは焔狼の中に宿り、彼の怒りを煽り立てている。  白い──狐。  その白さから感じられる神聖さと、それを殆ど感じさせない程に醜く歪んだ悪意と愉悦を湛える表情。これこそが白面が九罪魔に宿させた罪の形。   「あれが焔狼の怒りを絶やさずに燃やし続けているのでしょう、不死身ともいえる生命力も恐らくはそれが源。あれを叩かなければ、勝利は得られないでしょう」 “でも、どうやって……いや、もしかしてアレか”  あなたは思い出す。  焔狼へ一撃を与えた際に感じた、異様な力を放つモノの存在。それが焔狼の怒りを煽り立てているなら、それを引きずり出せばよいのかもしれない。   「何かお気づきになられましたか?」  そう言ったロメルにあなたが伝えると、彼女は一切疑わずに頷いてくれる。 “確証はないけれどね”あなたはそう付け加えたが、ロメルはその不安を拭う様に言葉を返す。 「いえ、可能性があるなら試すべきでしょう。何より九罪魔は最初に生み出した者、九罪を宿した者が異なっています。物語を歪ませる時点で非常に強力な力が働いているのですから、白面と言えど呪文一つで九罪を付与するのは難しいと仮定しても良いでしょう」 “なら、試してみよう” 「はい。全力でサポートしますので思いっきり──そして何よりも彼の不当な怒りを止める為にやってください」  ロメルの声にあなたは応えるように勢いよく駆けた。  ──なぜだ? なぜ、まだ歯向かえる?  ──なぜ、まだ、立ち向かえる?  ──“俺”の再点火を見て、なぜ諦めない?  ──なぜ、なぜ、な──? “焔狼……貴方の怒りはわかる”  こちらに駆け出してきた奴が何か言った。  よく聞き取れなかった、だがその憐れむ目が怒りを滾らせる。  ──知ったような口を利くのか、傲慢な二本足め。“俺”が何なのかも知らない癖に、その思い上がりがイラつく。 “勿論、私は貴方の物語が何なのかは知らない。でも、少なくとも貴方が殺した人々は貴方の物語とは何の関係もない人たちだったんじゃないのかな”  奴の言葉はやはり鮮明には聞こえなかった。  でも、怒りに狂った身体の何処かに残った自分という一片にも満たない残り滓が怒りの衝動を僅かに止める。   “まるで見せびらかす様に、区画へ入った者を挑発する様に貴方は彼らをそこへ置いた。無辜の人々を食べる為でなくただ怒りのままに殺し、そして嘲る様に放置した”  奴は更に続ける。 “それが例え貴方の怒りと報復であっても、許されざる行為。人の道理を獣に当て嵌めるのはおかしな話だけど、賢い貴方ならそうした行為が人を本気にさせると分かっていたんじゃないかな”  そして、奴はこちらを見つめて最後に告げた。 “だからこそ貴方は狩られるべくして狩られた”  奴の言葉が“俺”の怒りに沈んでしまった過去を引き上げた。 「あなた様、今です!」  焔狼が見せた隙にロメルが叫ぶ。  狙うは先程と同じ場所。  穿つ先は焔狼の根源。  鋭く抜き去った渾身の一撃を叩き込み、あなたは焔狼に非ぬ怒りを齎していたモノを一気に抜き去る。  血に塗れ、僅かに白い体毛が混じるそれは大量の札を巻き付かせた肉片。手に伝わるのは計り知れない怒りでは無く、寒気立ってしまう程の悪意と嗜虐さ。  奴がこの身体から何かを引きずり出した途端、この身を酷く苛んでいた怒りが抜けていく感覚があった。  爛々と焼き尽くす様な炎が、俺に怒りを焚き付けていたモノが、何もかも無くなった。  薄れゆく意識の中で、奴と翼の女を見る。  同じだった。  あの時のあの二本足と同じ目をしていた。  悍ましい悪魔を忌々しく見る様な目ではなく、ただひたすらの敬意と罪悪感。  最初こそあった憎悪と怒りも。  最期の時に残ったのは、ただ諦念。  己の浅慮が招いた事への喪失感。  ──俺は、俺は……  奴の体に火が見えた。  それは憤怒とは程遠い火だった。  翼の女にも火が見えた。  それもまた憤怒とは程遠い火だった。  ──私はいったい……  ──今まで“何に”怒っていた?  焔狼から抜き取った肉片をあなたは潰す。嫌な感触を感じると共に、その内部に渦巻いていた無数の悪意が霧散していく感覚。  そして、それは焔狼の怒りへのトドメ。  糸の切れた人形の如く力を失い倒れていく焔狼の双眸に怒りはもう無かった。血に染まったかのような赤眼は、かつての気高く誇り高い緋色へと戻っていた。 「……怒り、それは己の命や大事な存在が脅かされた際に燃え上がる感情なのでしょう」  ロメルがふと口を開いて言う。 「怒りを持つこと、それは決して悪ではない。ですが、怒りに狂った果てに無関係な者にまで矛先を向けるのは間違っています。 「何よりも怒りは収まらなくてはならない、火がいずれは消える様にです。怒りに染まれば、判断を間違え、自らも失ってしまう。 「貴方から怒りの感情を学ばせて頂きました、ありがとうございます。後は、ゆっくりとお休みください。貴方の怒りは、貴方が果たせなかった本当の矛先へ──私が伝えます」  ロメルの言葉が届いたか定かではない。  焔狼は数回口を開き、声にならない声を出しながら──その身を黒い靄と変えて消える。  静けさを取り戻した荒野に一陣の風。まるで悲しげに、月夜へ吼える狼の声に似た音が響く。 「……行きましょうあなた様。ついに彼女との対面です」  ロメルに言われ、あなたは静かに頷く。  九罪の箱庭を造り、九罪を与えた白面との対峙。そして、最後に残った“傲慢”の罪と向き合う時間。  恐らく最も困難な試練が待っている。  それでも、ロメルを最後まで見届けなければならない。  あなたとロメルは荒野を後にして、最後の区画へと歩みを始めた。    火が灯った。  無人の荒野に。  一つの火が再点火する。  火の数歩前隣に一瞬浮かぶのは白い狼。  火の後ろには数匹の狼。  彼女たちは一斉に吼える。  待ち望んだ彼の帰還を喜ぶように。  徐々に大きくなる火はやがて何かの形へと変わっていった。