生まれた日のことを、白巳は覚えていない。 覚えているのは、いつも隣にいた温もりだけだ。 同じ顔をして、同じ声で笑う、小さな男の子。白巳には双子の弟がいた。名前はもう、口に出せない。心の奥底に仕舞い込んで、鍵をかけた。鍵ごと、飲み込んだ。 孤児院は悪い場所ではなかったと、今なら分かる。 でも当時の白巳には、親に捨てられたという事実だけが、鉛のように胸の底に沈んでいた。弟は泣かなかった。白巳の手を握って、「いっしょだから、だいじょうぶ」と言った。その言葉だけを、白巳は信じることにした。 一緒だから。それだけで、十分だと思っていた。 研究者たちは笑顔で迎えにきた。 白衣の男は「良い環境で育てる」と言った。孤児院の院長は何も知らなかったのだろう。書類にサインをして、ふたりは連れていかれた。 施設の中は白かった。白い壁、白い天井、白い床。感情を削ぎ落とすような白さだった。 最初の検査は痛くなかった。ただ採血をされただけだ。でも白巳は何かを感じた。この場所には、温もりというものが存在しない。空気の中に、恐怖の残滓が溶けている。 弟が手を握ってきた。白巳も、握り返した。 ───UROA-08。 それが、白巳に与えられた番号だった。弟はUROA-09。研究者たちは名前を呼ばなかった。番号で呼んだ。最初は腹が立った。次第に、腹を立てる気力も失われていった。 ウロボロスの細胞を、体に埋め込む実験だった。 自分を食らう蛇の紋様が、白巳の左腕を這い上がった。焼けるような痛みが波のように押し寄せ、何度も意識を失いかけた。でも白巳の体は、それを受け入れた。細胞は馴染んだ。研究者たちは喜んだ。 弟は、馴染まなかった。 弟の体は細胞を拒絶し続けた。白巳はその様子を、同じ部屋から見ていた。壁一枚隔てた向こうで、弟が苦しんでいる。声が聞こえた。泣き声ではなかった。声にもならない、何かだった。 白巳は壁に手を当てて、目を閉じた。 ごめんね、と思った。なぜ謝るのか、自分でも分からなかった。ただ、謝らずにはいられなかった。 兵器化計画、という言葉を白巳が知ったのは、ある朝のことだった。 研究者たちの会話が扉の隙間から漏れていた。白巳は聞こえないふりをして、でも全部聞いた。 ウロボロスの力を一点に集中させる。適応できた個体に、できなかった個体を――。 その先は、聞かなかった。聞けなかった。 心臓が冷たくなった。手の先が、感覚を失った。 その日の夕方、弟に会えた。月に数度だけ許される、面会の時間。弟はひどく痩せていた。でも笑った。白巳を見て、ちゃんと笑った。 「ねえ、白巳」 弟が言った。 「おれ、もうだめかもしれない」 白巳は首を横に振った。そんなことない、と言おうとした。でも言葉が出なかった。嘘をつけなかった。 「でも、白巳のそばにいたい」 弟は白巳の左腕を、そっと触れた。ウロボロスの紋様がある場所を。 「ここにいる、って思っていい?」 白巳はそのとき、泣かなかった。 泣いたのは、ずっと後のことだ。 その日が来た。 白巳は何もできなかった。抵抗しようとした。でも体が動かなかった。拘束されていたのか、恐怖で固まっていたのか、もう分からない。ただ、全てが終わった後、白巳の体の中に、何かが宿った。 ウロボロスの欠片。そして、弟の全て。 左腕に黒い蛇が現れたのは、それからしばらく経ってのことだった。蛇は白巳だけに声をかけた。研究者たちには見えなかった。聞こえなかった。 声は、弟に似ていた。 白巳は最初、その声を拒絶した。幻だと思った。自分の壊れた精神が作り出した幻だと。でも蛇は消えなかった。白巳が泣いても、叫んでも、壁に頭を打ち付けても、静かに左腕に巻きついたまま、消えなかった。 あるとき、蛇が言った。 「泣かないで、白巳」 白巳はその言葉を聞いて、初めて声を上げて泣いた。 壁を引っ掻いて、床に蹲って、何時間も泣いた。研究者たちは気に留めなかった。被験体の感情など、些細なデータに過ぎない。 泣き疲れて、ぼんやりと天井を見上げたとき、黒蛇がそっと白巳の頬に頭を擦り寄せた。蛇の感触は冷たかった。でも、何故か温かかった。 ある日、物々しい音を、白巳は遠くに聞いた。 誰かが施設を密告した。外の人間が来た。研究者たちは逃げた。白衣が廊下を走っていく音がして、しばらくしてから静かになった。 白巳はずっと部屋の隅に座っていた。 扉が開いた。現れたのは、白衣ではなかった。黒い服を着た、若い女性だった。ベルトで細く絞られたシルエット、肩まで流れる茶色の髪。研究者たちとは、まるで違う立ち方をしていた。目的を持った人間の、静かな佇まいだった。 女性は部屋を見渡して、隅にうずくまる白巳を見つけた。驚いた様子はなかった。ただ、静かに歩み寄った。 「もう怖くないよ」 しゃがみ込んで、目線を合わせた。緑がかった瞳が、真っ直ぐに白巳を見ていた。 「もう終わったから」 白巳は頷かなかった。頷き方は上手になっていたはずなのに、その言葉に対しては、体が動かなかった。 終わった。その少ない言葉が、白巳の中でうまく意味を結ばなかった。終わるものが、あったのだろうか。ずっとずっと続くものだと、どこかで思い込んでいた。 女性は急かさなかった。立ち上がることも、手を引くことも、しなかった。ただそこに座って、白巳が動くのを待っていた。 しばらく経って、白巳は口を開いた。 「……あなたは、だれですか」 敬語が出た。条件反射のように。 女性は少し目を細めた。怒っているのではなく、何かを堪えているような顔だった。 「施設を壊しにきた人間」 それだけ言って、また静かになった。 白巳はその答えを、しばらく頭の中で転がした。壊しにきた。研究者たちを追い払った。この場所に踏み込んだ。 「……なぜ」 「ここで何が行われているか、知ったから」 女性の声に、感情が滲んだ。怒りでも悲しみでもない、もっと静かな、でも深いものが。 黒蛇が、白巳の左腕でそっと動いた。声はなかった。ただ、微かに温かくなった。それだけで、今は十分だった。 白巳はゆっくりと立ち上がった。膝が震えた。でも倒れなかった。 女性が立ち上がるのを待って、並んで歩き出した。 外の空気は、施設とは違う匂いがした。 白巳はそれが何なのか、しばらく分からなかったけれど、後になって気づいた。 普通の、ただの外の空気だった。 白巳を引き取ったのは、その女性だった。 名前は“朧 静音”さんと言うと聞いた。 孤児院でも、施設でも、行政でもなく。あの黒い服の女性が、書類を揃えて、白巳の養母になった。 理由を聞いたのは、引き取られてから数日後のことだ。 「なぜ、わたしなんかを引き取ったんですか」 静音さんはコーヒーカップを置いて、少し考えてから答えた。 「置いていけなかった。これだけじゃ不安かい?」 それだけだった。それ以上の説明はなかった。 白巳は頷いた。今度は、ちゃんと頷けた。 理屈ではなく、衝動で動く人間がいる。白巳はその日初めて、そういう人間を、怖いとは思わなかった。 ここまで読んでくださりありがとうございます 静音と白巳の日常 https://files.catbox.moe/cdmq1q.png