───────────────── 夢が見たかった。誰にも縛られず、あるがまま、思うがままに振る舞える……そんな、とびきり甘い夢が。 本当に欲しかった物など、私が触れていい筈がない。私はこのまま何1つ手に入れられず、何者にもなれず、色褪せ、朽ち果てていくべきだ。 ───────────────── 生まれてみれば、私は、私である事を望まれなかった。私が産声を上げたのは、働き手を欲していた貧しい農村。 両親は私の存在そのものに落胆していた。男児が欲しかったのだと。だから私の狭い世界は、私の手ではどうにも出来やしなかった。 物心と引き換えに、私の幼少期は終わりを告げた。どれだけ小さくて、平坦であろうと私は『女』だった。女は金ばかり掛かる。それなのに直ぐに嫁に行ってしまい、役に立たない。降り積もった言葉の数だけ、足取りは重たくなった。女の格好など、一度たりともさせて貰えやしなかったのに。 畑仕事や家事でボロボロになった指と、乱雑に切られた髪。親が着古した、シミと継ぎ接ぎだらけの大き過ぎる服。一体、何が私を『女』だと証明してくれるのだろうか。 両親が男児を欲しがる度に、仕事は増えた。至らない所ばかりを数えられた。全てを時間迄に終わらせなければ、私を殴り飛ばし、朝から晩まで働く事を良しとする村が大嫌いだった。 けれども、それよりも街が大嫌いだった。収穫物を売りに行く度、目にする華やかな景色の全てが。 何の苦労も知らない顔で街を歩く女の子達が憎かった。目にする度に、叫んで何もかもを滅茶苦茶に壊したくなる己の醜さが、何よりも大嫌いだった。 手入れの行き届いた長い髪と、継ぎ接ぎの無い綺麗で可愛い洋服。泥汚れはおろか、ささくれ1つすら無い指先と磨かれた爪。花が咲いたような笑顔。私が纏いたかった全てを当たり前のように享受する姿が、どんな存在よりも邪悪に見えた。 大切にされているものを見る度、笑われているように感じた。何もされて居やしないのに。私なんて眼中にすら無いんだから。それなのに、頭の中を直接掻きむしられるような感覚に陥って、それを抑圧する為に只1人で浅い呼吸を繰り返した。 清潔な服に身を包んだ、教会の女の子達から受ける『施し』が苦しかった。醜い私に向けられた気持ちが、本当に『善意』しか無かったのが分かってしまったから。 「早くから働いて立派な坊や」 その言葉が私の胸を抉った。どんな悪意よりも、善意が心に深く突き刺さった。 やっぱり私に与えられた全ては、私を『女』だと証明してくれないではないか。 重たい農作物を全身に括り付けられ、遜った笑顔と、泥だらけの手で商売をする不衛生な生き物の、どこが『女』なんだろうか。 村へと帰る途中、両親が私に向かって呟いた。パンに生えたカビを見るような目で。 「お前も、街の女達くらい器量がよければな」 ……私は一体、何をしたのだろう。 作物やら妹達やらを括り付けられて、煩いと詰られながら、泣き止まない妹達をあやした。 髪が伸びれば雑草のように刈り取られ、死んだように息をして、鍋底で冷め切った残飯をかき集めて醜く貪る。許しを乞おうにも、私がしたのはそれだけだった。それだけしか許されなかった。 ある日、私に話し掛けたのは、私よりも少しばかり歳上の男。村で1番大きな家に住んでいた、乱暴な嫌われ者。取引きがしたいのだと。パンに生えたカビのような私と。 男が手に持っていたのは、リボンとレースの付いた、真新しい靴下。思わず喉が鳴った。私が憎み続けた邪悪に。家にはスカートも用意してあるのだと。その言葉に目が眩み、言われるがまま後に続いた。 そうして、憎み続けた邪悪に目が眩んだ日は、私が『女』であると、証明された日となった。 ───────────────── それからは、あっという間だった。たかが靴下一足で男と寝る売女。娯楽なんてありやしない狭い村。その話に飛びついた者達が、使い古して擦り切れた女物の衣料品を片手に、私を笑いにやって来た。 両親の怒りは最たるものだった。そんな風に育てた覚えは無いと。あぁ、そうだな。そうだった。お前達が育てていたのは『女』じゃなくて、『意思疎通が可能な家畜』だもんな。 手にしたスカートは穢らわしいと燃やされた。最後まで、私が女であるのを否定するかのように。 こんなのあんまりだと、両親を止めに入る妹達を両親は怒鳴り散らした。 「お前達も、こうなりたいのか」 妹達はそれ以上何も言えず、口をつぐんで俯いた。そうしている間に馬車が来て、僅かばかりの硬貨と引き換えに、私は荷台へと詰め込まれた。 これからも抱える筈だった地獄を妹達に押し付けてしまったのと、ベッドの中で泣き叫ぶ、1番下の妹の涙を拭ってやれなかったのが、心残りだった。 ───────────────── 『女』であると証明するのは簡単だった。 街の女の子達が着ていた服には遠く及ばぬ安物だとしても、あの家に居たままであれば、永遠に袖を通す日は来ないであろう衣服。髪を伸ばすのも許された。 そうやって着飾って、散々安く買い叩かれた自分を慰撫した。 私が女である事を証明した後は皆が皆、示し合わせたかのように、こぞって説教を始めた。その姿が滑稽だった。だから可哀想な女を演じた。 愛なんて知らない。字も分からない。貴方と居れば、それらが分かるだろうか。教えてくれるのは、貴方だけ。こんな気持ち初めて。散々使い古した言葉だけで皆が皆、競い合うかのように、使い古された私に色々と教えたがった。 気付けばいつしか、鬱屈した私の心は男達を競わせる事に夢中になっていた。こんな素敵な物を、あの人に貰った。そんな卑しい言葉で、更に高価な物が私の手に届く。私が喜んだからと、男達が図書館から借りて来た本が、私の部屋に山を作った。男達が私に群がった時のように、鬱憤を晴らすかのように、開いて漏れ出た紙の匂いと活字を貪った。先人が残した叡智を貪った数だけ、安価で使い捨てられ、落ちていく筈だった私の価値は上がっていった。 本は良かった。ページさえ捲れば醜い私も、なんにだってなれた。自分を引き倒すインク溜まりような影から逃げるように、紙の上をひた走った。 そうして奪って喰らって逃げて、不安定な足場を登って駆け抜けた先、出会ったのが旦那様だった。 ───────────────── 旦那様は、他人を蹴落とす事を厭わない、悍ましくて狡猾な人だった。何人もの愛人を囲っても尚、満たされない想いを抱えていた。 何を求めていたのだろうか。囁く愛はいつだって、裏切れば、次はお前の番だと示唆しているようだった。 人を支配する方法でしか人と繋がれない、暴力的で、浅はかで、誰にも過ちを咎めて貰えない、孤独な人。笑顔で虫を殺す幼少期のままで針を止めた、壊れた時計のような人だった。 だから私が、旦那様の提案に対して、初めに芽生えたのは好奇心だった。子ども……尚且つ、自らの幼い娘を愛人に世話をさせるという狂気の沙汰に。 嘗て詰め込まれた荷台とは違い、振動すら感じない静かで快適な車内、流れる景色を横目に私はほくそ笑んでいた。 どうせ長くない。だから、せいぜい死ぬ前に良い夢でも見てやろうと。一国の姫にでもなった気で。 私の手では到底手が届かない身分でありながら、男に寄生するだけしか能の無い、浅ましい女達に母親を奪われた少女は、どんな顔をしているんだろう。そんな震えが、得体の知れぬ感情と共に歪んだ笑みを溢した。 ───────────────── 所詮、安価な偽物でしかない私は、旦那様以上に浅はかだった。そこに居た少女に眩暈がした。その輝きは余りも暴力的で、邪悪で、散々蔑ろに扱ってきた、神の怒りにでも触れてしまったような気にさえなった。 頭から爪先までの全てが、私が生涯を賭けても永遠に届かない輝きで構成されていた。側に居るだけで、存在を脅かされるようだった。 とても血が通っている人間だと思えなかった。夜空のような髪も、蝶の羽のように長い睫毛も。 神様みたいだった。それ以上に、もしも人々を支配する悪魔が居るのならば、こんな顔をしているのだろうと畏怖すら感じた。 お嬢様は、私では到底知り得ない、大それた何かを果たす為に誂えられた作品のようだった。 食物連鎖で下位に位置付けられた生き物に許される行為など、無いに等しい。矮小な私が取った行動は、威嚇だった。 世界の意思すら従えるような輝きを放つ、萌黄色の眼に怯え、付け焼き刃にすら成っていない作法を手に、愚かな嘘を吐いた。 「本当の家族のような、温かい関係を築くことができれば」 ───────────────── お嬢様は、貴き血を繋ぐ為だけに造られた調度品のようだった。そのようにして丁重に扱われ、多くの家庭教師が宛てがわれる度、その所作は更に磨かれていった。 初めから完璧で、全てを与えられているようだった。容姿も声も、それらを彩る宝飾品も、僅かな表情の揺らぎさえも、初めから最も美しい形で造られて居るようだった。 最早、嫉妬心すら湧かなかった。余りにも完璧過ぎたのだ。上手くいかないように上手く調整された世界の中、全てを与えられ、これからも全てを手に入れる。そんな女が1人ぐらい居てもいい。そんな希望すら抱いた。 お嬢様にせがまれ、沢山の本を読み聞かせた。2人きりの時は名前で呼び合った。眠りに落ちる迄、貴き血を繋ぐ為だけに造られた調度品を独占する。卑しい女の身で、花と果実の香りがする特等席に座り、とびきり甘い夢を見た。 けれども、お嬢様は家族という檻に閉じ込められていた。ご令息達からは、金食い虫と罵られ、旦那様に至っては、日に日に死んだ女に似てきて亡霊みたいで気味が悪いと忌み嫌っていた。 容姿だけであれば、旦那様が心血を注いでいた1番上のご令息こそ、最も奥様に似ていたというのに。 描いた希望すらをも殺されているようで、それが許せなくなった。私が纏いたかった全てを、当たり前のように享受する姿を散々憎み続けた心で。 お嬢様は、孤独だった。私が奪った特等席は私ではなく、奥様が座るべき玉座だったからだ。 それでも私は特等席を譲れず、求められるまま物語を読み聞かせ、嘘を吐き続けた。 「悲観なさらないでください、████様。きっと、この世界にはまだまだ知らない綺麗な物が沢山ある筈です」 遠慮などなさらず、思うが儘に振る舞って欲しい。そう微笑んだ私は、この世で最も邪悪であっただろう。 私はいつしか、自力で本を読まなくなった。物語の中で何者にでもなれたとしても、本を閉じれば、取り返しの付かない罪を突きつけられたからだ。 一度だけ、問われた事がある。何になりたかったのかと。 家族への仕送りの為に働いている。嘗て吐いた愚かな嘘が、その問いを作ったのだろう。 余りにも返答に困る問いだった。そんな物、何処にも無かったのだ。様々な姿が浮かんでは消えて行く。求めたものは何か。何が私の幸せか。 花と果実の香りがする、お嬢様。完璧なようで、朝が苦手で中々起きられず、柔らかな髪に寝癖がついている日だってある。 髪を梳かされる感触が好きで、幸せそうに目を細めては、母親を奪った私にされるがまま、身を委ねる姿。 私の夢物語に目を輝かせ、空想の世界に想いを馳せている……そんな完璧な調度品が見せる、不完全な姿。 奪い取った、私だけの特等席。私だけが知っているという優越感。私だけの、お嬢様。これからも沢山の素敵な姿を見せて欲しいし、沢山、素敵なものがあるのだと教えたい。 私の口は、教師になりたかったなどと、初めて見る夢を描いた。 お嬢様の髪を撫で、優しく抱きしめて、沢山の夢物語を聞かせた。そうやって私は、小さな頃の私を慰撫していただけかも知れない。 私如きに群がった馬鹿な男達が、私に色々と与えたように、お嬢様に何かを与えた気になって、ちっぽけな自尊心を満たしていただけかも知れない。 「今は████様にお仕えする事ができて、夢が叶ったようで幸せ」 けれどもそれは、嘘吐きな私が吐いた、数少ない本当の言葉だった。 ───────────────── 気付けばお嬢様は私の背丈を追い越し、孤独な幼少期から一転、多くの友人に慕われていた。それでも私の背丈に合わせ、背中を曲げては私の声に耳を傾けてくれた。 1人でも堂々と背筋を伸ばしていても、雨が止むのを待つ横顔は寂しげで。強い存在感を周囲に刻み付けていても尚、次の瞬間には消えてしまいそうだった。 対話を試みようとする度に旦那様達から「女の癖に口答えをするな」と口を塞がれ、達観しているようで、どこか未練めいたものを感じさせた。 主張せずとも、よく目立つ。随分と大人びた今でも、ふとした時に見せる笑顔は、物語に想いを馳せていた幼少のままだった。 世界の意思すら従えるような輝きと同時に、一度でも踏み込めば最後、決して後戻り出来ないような深い影も纏うようになっていた。 煌びやかで鋭く、仄暗い。完成されているようで、どこか未熟。元来であれば同時に存在する筈の無い事象が成立し、同時に存在を発揮する。それが人々を惹きつけてやまなかった。 雪崩れ込む縁談話の数々を、旦那様が堰き止めていた。この程度の家柄は、我々に相応しくないと。出来損ないを調子に乗せてはならないと。どちらが本音だったのだろうか……否。どちらも本音だったのだろう。 お嬢様を出来るだけ離れた国へ嫁がせようと躍起になっていた。此処ではない、遠い何処かへと追いやろうと。 お嬢様と離れたくなかった。この特等席を離したくなかった。お嬢様を戦利品としてしか見ていない、家柄だけの薄っぺらい男達に奪われたくなかった。こんな奴らに捧げてなるものか。お嬢様が持つ全ては、誰かに奪われる為に存在している訳では無い。 だから並べられるだけの粗を並べた。この国は発展も乏しく、この家に相応しくないと。この国は、治安が悪く、品も無いと。国としては申し分無いが、家柄が卑しいと。もっと旦那様に相応しい取引相手がある筈だと。 旦那様は最早、自分の機嫌を自分で取れなくなる程までに壊れていた。お嬢様を「女の癖に」と蔑んでは抑圧し続けた口で、女の癖に旦那様に向かって愚かな主張を振り翳す私を聡明と称し、腐れ切った愛を囁いた。 「あれも、きみくらい女らしければな」 まるで、パンに生えたカビを見るような目。 お嬢様が一体、何をしたと言うのだ。 ───────────────── お嬢様は、何処まで知っていたのだろうか。 無関係で無価値な存在からの心無い言葉も、家族からでさえ何を言われても、笑い飛ばせるようになっていた。 怒る様子も無く、卑屈になる様子も見られず、一切気にも留めない優雅な表情が誇らしかった。 他所行きの表情が板についていた。背伸びをせずとも、大人びた装飾が似合うようになっていた。奥様の形見の数々が。 それらがお嬢様の動きに合わせ輝く度に、罪を咎められているような気がした。まるで、一度もお会いした事の無い奥様から、目を覗き込まれているように。 私の視線に気が付いたのだろう。私の名前を呼んで、奥様の形見を身に付けるように、私に勧めてきた日すらあった。きっと似合うだろうから、と。 そこにあったのは紛れもなく『善意』だったのだろう。醜い私に向けられたそれが、とても恐ろしく、そして苦しかった。けれども、苦しんでいたのは私だけではなかった。 お嬢様は近頃、ドレスが窮屈だと口にするようになっていた。直前に何かを召し上がった様子も無ければ、然程コルセットも締めていない。身体も細いままだった。 周囲に気付かれない程度に緩めると、申し訳なさそうに、そして悲しそうに笑った。どうしてそんな顔をするのか。愚かな私は理解していなかった。 全てを照らす輝きは、近付き過ぎた者の身を焦がす。人の良い所を見つけるのが得意で、多くの人々に成功を望まれているのと同時に、破滅も望まれていた。 ───────────────── 勝手な噂が付いては困るからと、外に出る事すら、お嬢様には許されなくなっていた。 御友人との手紙のやり取りすらも禁じるようにと旦那様が苦言を呈していた。 それでも、お嬢様の身を案じる御友人達からは手紙が届いた。だから使用人全員で口裏を合わせては秘密裏に渡していた。 触れてはならぬ事項だと、目を合わせる事すら嫌がった私にすら、皆は協力したのだ。 最早、この屋敷の誰が主人で、我々使用人は誰に仕えているのか明確だった。 お嬢様は、雨が苦手だった。正確には、雨が降る前、どんよりとした鉛色の空が。頭が痛むのだと。 悪い出来事と一緒で、過ぎてしまえば平気だと、痛み止めを飲んで笑っていた。 決まってそんな日は、雨に濡れる庭の花を窓から眺めていた。 どうしようもない嵐でも、静かに待っていれば通り過ぎるからと。ただ、待つだけで良い私は恵まれているのだと、他所行きの表情で吐き捨てた。まるで自らに言い聞かせているように。 お嬢様が世界に呪われる度、描いた希望を破り捨てられたようで、堪らなく苦しかった。自らを抑圧する姿なんて見たくなかった。 大粒の雨を叩きつけられ、色褪せ、散り行く花々。それを窓から見下ろしていたお嬢様に問うた。一体、何に怯えているのかと。 「……ドレスが苦しいの」 その言葉が皮切りだった。乾いた地に染み入る雨のように、言葉は降り注いだ。 「選ばれないのに、それでも恵まれない人々を踏み躙って作っただけの豊かさを、世界に見せつけるように着飾る愚かさが」 「矜持とか、信念とか、そういう大切なものを守れる力すら無い。手元に残ってくれた宝物すら取られるのが怖くて、弱くて情けなくて、嘘を吐いて、始めから持っていないフリをして隠す事しか出来ない」 「他の人にどれだけ褒めて貰えても、『機嫌取り』としてしか処理できない頭が嫌で仕方ない」 「それでも、こんな私を慕ってくれる人は皆、優しくて、素敵で、幸せになって欲しいのに、至らない所ばかり数えられる。役に立ちたいのに、皆を笑う奴らを殺してしまいたいのに、爪ひとつ立てられない自分が情けない」 「私は、私が社交界で付けられた下卑た呼ばれ方も知っている」 凍えるように、小さく震える身体。流れる熱い雫を、ただ受け止めた。矮小な私には、それだけしか出来なかった。 「お父様達が言うように、私もシャルロッテみたいに柔らかくって、女の人らしかったら、誰かに好きになって貰えたのかなぁ……そうだったら、お父様達とも話せたのかな。貧相で、見窄らしいって言わないでくれたのかな。お父様達が私を女だと言ってくれるのは、男性のように意見を口にした時だけ。女の癖にって……はは。私は何になりたいんだろう。女性として戦利品みたいに扱われるのも苦しい癖に、おかしいよね……あぁ、いっそ髪も切って、殿方みたいな格好でもしてしまおうか……」 掻き集めたような言葉の数々が、ぬいぐるみから出た綿のようで痛々しい。 御子息達に引き裂かれたぬいぐるみの欠片を集めて涙を流していたお嬢様を思い出した。あれば結局、どうしただろうか。 縫い直そうにも、大部分を暖炉に投げ込まれ、お嬢様の心のように、元に戻らなかったあれは。 「あはは。何が言いたいんだろう。性別が変わったって、問題は解決しないって分かってるんだ。兄様達を見れば、嫌でもよく分かる」 2番目の御子息は長年、上の御子息に虐げられ続けていた。そして上の御子息は、旦那様から心血を注がれた結果、歪んでしまった。故に我々使用人とお嬢様に、ありとあらゆる負の感情をぶつけていた。 「私には血統しか無いんだから、それだけの価値しか無いのに。それすら要らないと笑う人達が欲しいわけじゃないのに、分からない。私は何が欲しいんだろう。皆、何が欲しいのかなぁ」 母親と逸れてしまった小さな子供のような声は、やがて嗚咽に変わった。お嬢様に「消えてしまいたい」とさえ言わせてしまった世界に眩暈がした。 だがそれよりも、己の醜さに吐き気がした。完璧なお嬢様の心を揺らがせる者が、自分以外にも居たという事実に酷く動揺していたのだ。 私は自らが、お嬢様を心配していたのでは無かったのを、嫌でも理解した。こうなりたいと憧れ続けた存在が、私の前だけは不完全で、私の言動にだけ心を乱すという幻想を見たかっただけだった。 私は、お嬢様の苦しみすら『美しい物語』として鑑賞し、貪っていただけだった。 最低だ。否、最低なんて言葉すら生温い。お嬢様を戦利品としてしか見ていなかったのは、家柄だけの薄っぺらい男達ではなく、私の方だった。お嬢様も、『人』だったというのに。言われた言葉の数だけ傷付いて、それでも涙すら許されずに抑圧されて。 踏み躙られた尊厳を守る為に作った仮面を強さだと勘違いして、理想を押し付けて。 思うが儘に振る舞えと、尊大であれと、私の前だけでは自由であれと、私は誰よりも、お嬢様を抑圧していた。 私は、私が見た夢の数だけ、お嬢様を苦しめていたのだ。私こそが、人を支配する悪魔だった。 夢から醒めた私は、震える身体でお嬢様を抱きしめた。まるで2人で風雨に晒され、凍えるように。それすら罪だというのに、それを止められなかった。震える身体で罪を重ねた。 「ごめん、ごめんね、シャルロッテ。甘えてばっかりで。仕事だから聞いてくれてるだけなのに」 「どうして謝るのですか。仕事だから聞いているんじゃなくて、貴女の言葉だから聞いているのです……」 突き放されたような、自分本位な胸の痛み。ただそれを埋めるかのように、必死に言葉を紡いだ。 私には傷付く価値すら無いのに。お嬢様の言葉に何を傷付いているのだろう。家柄すら卑しい私は、信頼に値しないのが当たり前で、自ら起こした行動の全てのせいで、何を言っても薄っぺらいのに。 どうすれば、この人の涙を止められるのだろうか。 何になりたかったか、今では分かる。この人を、幸せにできるようになりたかった。 しかし、『壊れた時計』は針を進めていた。お嬢様の嫁ぎ先が決まったと、ベッドに横たわる私に告げた。 嫁ぎ先は遠い国の王。その第5夫人。今日中に本人へ伝えておけと。 それは私にとって、死刑宣告に等しかった。この男は、自分よりも年老いた男に、自らの娘を差し出したのだ。 ───────────────── その日が最後の1日になる筈だった。どこか遠くで黒い煙が上がっているのを尻目に、何も知らない顔で今日が終わるのを待つだけの。 出来やしないのに、お嬢様を攫って、どこか遠くへと逃げたかった。 お嬢様の為に注いだ紅茶が、僅かな振動を伝えた。それが始まりだった。凄まじい振動と轟音が私達を襲った。 必死で空を目指した。お嬢様を生涯縛り付けていた屋敷の壁すら吹き飛ばした。1度も使えやしなかった魔法で。そうして嫌でも気が付いてしまった。すっかり小さく、軽くなってしまったお嬢様に。優しい匂いも、温もりも消えた身体に。元に戻らぬ惨状に。 それからは自らの半身を奪われたかのように朧げだ。ただ、奪って使った。 奪われた分、奪い返して何が悪い。世界が私をそのように扱ったのだから、私も世界をそのように扱うのが相応しいと。 使い古された無価値な身体で、まだ見ぬ醜い『何か』から奪い尽くした。そうしているうちに、声が聞こえた。懐かしい声。聞きたくて仕方なかった、私の存在を特別にしてくれる、情けなくて、愛おしい声。 「ねぇ、シャルロッテ。起きてよ、拒んでよ……今から私は君に最低なことをするんだよ……」 私に掛かっていた靄が晴れた。ああ、そうか。お嬢様は全てを知っていた上で、それでも傍に居てくれたんだ。ああ。そうだ。そうだった。私は。 ──私は、間に合ったんだ。 朝の弱いお嬢様に起こされる日が来るなんて。幾ら大きくなろうと、眠い目を擦っていた小さな頃の面影すら、鮮明に思い出せる。 私に与えられた全てが、お嬢様を守る盾となるのなら、何を拒む必要があるのだろうか。そう伝えられないのが心残りだ。何を言っても信頼に値せず、薄っぺらいのに。 涙を拭えないのも心残りだ。未だに特等席に座ろうとする己の浅ましさに、笑ってしまう。本当に冗談じゃないのに、笑ってしまう。 けれども私が守れた生命は、今ここに有る。私が唯一奪わず、この手で掴めたのだ。それで良い。捧げられるものがあったのなら、身に余る光栄だ。私の汚れた手は、お嬢様を守る為に使えたんだ。 お嬢様の『これから』を見届けられないのが心残りだ。だが、それでいい。そうあるべきだ。私は充分貰ったのだから。身に余る程、とびきり甘い夢を貴女に見せてもらった。 返せるものが、これ以上無いのが心残りだ。本当に過ちと、心残りばかりの生涯だ。お嬢様を傷付けて、裏切ってばかりの。 だからこそ、私が僅かばかりに残した全てが、貴女の救いになりますように。 多くを惹きつける貴女を利用する者達から守る爪に、どこにでも行ける翼になりますように。空高く、どこまでも遠い世界へと、貴女を運べますように。 そうしていつか、お嬢様が望んだ時、望んだ相手から注がれる愛が、私を覆い尽くす程に大きく、暖かなものでありますように。 貴女の行く末が、幸福に満ちたものでありますように。遠い未来、傷すら微かな跡でしかなくなって、誰かと笑って話せる日が来るのを願ってやみません。 いつか貴女の傷が癒えるまで。私が遠い過去に流される日が来るまで。いつか貴女に忘れられたとしても。 忘れてください……などとは言えません。優しい貴女の中で、きっと永遠になってしまうから。 過ちだらけの私の生涯に、『鮮やかな輝き』を与えてくれた貴女へ。何者でも無い私から。 ──お慕いしております。クラリス様。 ──────────────────────