保有書物 □『すべてはFになる』 指定された空間が白く染まり、消失する "喪失の恐怖すら、慣れてしまった" □『焼き捨てられた花』 粒子で一本の深紅のフルートを構築 その旋律は草木も観客に変え、悲嘆と共に大気を裂渡る □『ぼくはあるいたまっすぐまっすぐ』 貴方の努力の先にはご褒美のチョコケーキ。 書物『傾いた天秤』より引用 人は天秤をもて、正しくあらんとする者の徴となしき。 二つの皿は等しく、針は中央を指し、罪と罰、善と悪、真実と虚偽とを量るものなりと。 されど、それを定めしは誰ぞ。 神か、王か、あるいは天秤を持つことを許されし者か。 もし初めより、片方の皿にのみ石積まれしならば。 もし片方の声のみ祈りと呼ばれ、もう片方の叫びが罪と呼ばれしならば。 その均衡に、いかほどの価値があろうか。 かつて、名もなき者はこの問いを知らざりき。 彼は蒼を信じたり。 空に満つるもの、地を覆うもの、人を導き、力を授け、弱き者に進むべき道を示すもの。 蒼とはさようなるものと教えられたり。 彼もまた、これを信じたり。 祈りを捧げ、その名を唱え、与えられし力を祝福と呼び、その力をもって敵を退けたり。 己が手に宿りし奇跡こそ、蒼の正しきことの証と信じたり。 蒼に選ばれしことを疑わず、蒼の意志に従うことを正しさとなしたり。 されどある日、彼は天秤を見たり。 片方の皿には救われし者あり、もう片方には救われざりし者ありき。 蒼を讃うる者には祝福が降り、蒼に届かざりし者は声もなく消えたり。 なお人々は言えり、「これは正しきことなり」と。 「蒼が選びたればなり。蒼の望みたればなり。我らにはただ解し得ざるのみ」と。 名もなき者も、初めはさよう思えり。 されど――なぜ、この一語のみ、祈りの中に残れり。 なぜ、この者は救われしや。なぜ、かの者は死したるや。 なぜ、同じ祈りを捧げながら、片方のみ聞き届けられたるや。 なぜ、蒼は答えざるや。 問いは消えざりき。祈るごとに残り、祝福を受くるごとに強まりたり。 やがて彼は気付けり。おのれが仰ぎ見たるものは、答えにあらざりき。 ただ巨大なるがゆえに、誰も問いを向けざりしものなり。 その日より、祈りは問いへと変わりたり。 問いは疑念となりぬ、疑念は怒りとなりたり。 されど彼は、蒼より授かりし力を捨てざりき。 それこそ最大の矛盾にして、また彼が選びし唯一の道なりき。 蒼より授かりし剣を握り、蒼より授かりし力をその身に宿し、蒼より教えられし祈りを口にして。 彼は蒼へと向かえり。 神を殺さんがためにあらず。まず、答えを得んがためなり。 なぜ選ぶや。なぜ見捨つるや。 なぜ救済を語りながら、救われざる者の声を聞かざるや。 なぜ己が秤のみを、世界の正しさと呼ぶや。 答えあらばこそ聞かん。 もし答え得られざるならば。もし苦しむ者を見下ろしながら、それを秩序と呼ぶならば。 そのとき初めて、彼はおのれが信じ来たりしものを敵と定めんとせり。 ゆえに彼は、天秤を正さんとはせざりき。 傾きたるものを水平に戻すにあらず。傾けし者の手を払い、その秤そのものへ問いを突きつけん。 右手には福音、左手には禍音。 一方は蒼き祝福を語り、一方は竜の咆哮を語る。 されど名もなき者にとりて、それらの真偽は問うところにあらざりき。 蒼であれ、竜であれ、白き晶であれ。 神と名乗らば問い、祝福と名乗らば疑い、理想と名乗らば、その果てに立つ者を見よ。 戦いの果てに何が語られしか。蒼が何を答えしか。あるいは最後まで何も答えざりしか。 それは記されず。ただ結果のみが残れり。 名もなき者は敗れたり。 蒼より授かりし力をもって蒼に挑み、その力を振るい尽くして、なお届かざりき。 肉体は砕かれたり。骨は朽ち、血は失せ、かつて祈りの言葉を唱えし喉もまた沈黙せり。 蒼は彼を打ち倒したり。 されど、問いまでは殺し得ざりき。 声は残れり――死者の声、敗者の声、忘れられし者の声、名を奪われ墓標さえ与えられざりし者の声。 名もなき者はこれらを慰めず、救済を約束することもせず、ただ聞けり、聞き続けたり。 肉体を失いし後もなお。 やがて彼自身の声と、背負いし声々との境は失われたり。 「祈れ」と、ある声が言えり。 『風を』と、もう一つの声が答えたり。 「祈れ」と、ある声は言えり。 『蒼を』と、もう一つの声が答えたり。 それが誰の祈りなりしかを知る者は、もはやなし。 ただ一つ、確かなることあり――彼が剣を抜きしとき、そこに公平は存在せず。 裁定もなし。慈悲もなし。 あるものはただ、問いに剣をもって答うる者と、その問いを受けねばならぬ者のみ。 これを決闘と呼ぶ者あり。処刑と呼ぶ者あり。祈りと呼ぶ者あり。 されど彼自身は、何とも呼ばざりき。 名を与うれば、いつか名のみ残る。理想と呼べば、いつか誰かがその理想に溺れん。正義と呼べば、いつか正義そのものが新たなる神とならん。 ゆえに、何も残さず――王冠も、教義も、勝者の座も。 剣を振るいし者さえ、終には消えゆく。 それでよし。声のみ残ればよし。 風が墓標を削り、蒼が空を覆い、白晶が砕け、竜の名さえ忘れ去られし後にも。 誰のものとも知れぬ歌の、遠き所に聞こゆるならば。 そのとき初めて、彼の祈りは終わらん。 誰が正しさを決むるや。誰が罪を量るや。誰が救う者と救われざる者とを選ぶや。 しかして――その天秤が初めより傾きたるならば、これを公平と呼ぶ要など、どこにもなし。 『傾いた天秤は戻らず、肉は腐り、魂は遠く歌う。』