《2》 森は、湿っていた。 夜露でも雨でもない、もっと粘ついた湿り気が空気に混じっている。 吸い込めば、肺の奥に何かが残る。 吐き出しても消えない。 “居座る”ような違和感。 それが、この森に満ちていた。 天逆無月は、その中を歩いている。 十九歳になった彼女の歩みは、変わらない。 静かで、迷いがない。 だが―― その内側は、確実に変わっていた。 喉が焼ける。 声を出すたびに、内側を削られるような痛みが走る。 それでも彼女は、声を抑えない。 抑える理由があるからではない。 “何かが、声を出させたがる”。 「……いるな」 かすれた声が落ちる。 その瞬間、森の奥で気配が揺れた。 風ではない。 もっと直接的に、“意識”が触れたような反応。 無月は、わずかに眉をひそめる。 その反応にではない。 自分の声に対して。 今の一言は、自分の意思で発したのか。 それとも―― 「……うるさい」 小さく呟く。 誰に向けたものでもない。 だが、確かに“内側”へ向けている。 沈黙。 数秒。 それで十分だった。 “それ”は完全に消えはしない。 だが、表には出てこなくなる。 押し返した、というより―― “飲み込ませた”。 一時的に。 無月は歩き続ける。 足元の土は、普通だ。 踏めば沈み、踏みしめれば音がする。 森もまた、正常に見える。 木は揺れ、葉は擦れ、虫の声も遠くで響いている。 だが。 そのすべての“隙間”に、何かがいる。 視界の端。 音と音の間。 呼吸の合間。 そこに、黒い滲みのようなものが潜んでいる。 それが、この森の呪いだ。 広がっているわけではない。 “染み込んでいる”。 取り除くのではなく、削ぎ落とすしかない類のもの。 無月は立ち止まる。 前方。 木々の間に、わずかな歪み。 それは妖怪の気配でも、明確な核でもない。 もっと曖昧で、 もっと執着質なもの。 ――残滓。 呪いが残した、“痕跡のようなもの”。 だが、それでも人を壊すには十分だった。 無月はゆっくりと、刀に手をかける。 その瞬間。 ぞわり、と。 背骨の奥を、冷たいものが這い上がる。 喜んでいる。 刀が。 いや―― その中に“詰まっているもの”が。 「……出るな」 低く、押し殺した声。 喉が焼ける。 それでも、言葉は止まらない。 止められない。 内側から、別の声が重なりそうになる。 斬れ、と。 終わらせろ、と。 囁きではない。 もっと直接的な、“衝動”。 無月は目を閉じる。 ほんの一瞬だけ。 それで、均衡を取り戻す。 完全には抑えられない。 だが、主導権はまだ自分にある。 「……まだ、私だ」 確認するように呟く。 その言葉に意味があるかは分からない。 それでも、必要だった。 彼女はゆっくりと、刀を引き抜く。 音は、小さい。 だがその瞬間、空気が変わる。 静かに。 確実に。 何かが“短縮された”。 斬るという過程。 振るという動作。 それらをすべて飛ばして、 “斬れた”という結果だけが、そこに置かれる。 前方の歪みが、すっと消えた。 崩れるでも、裂けるでもない。 ただ、“消えた後”だけが存在する。 無月は動いていない。 刀も、わずかに抜かれただけ。 それでも結果は確定している。 彼女は、ゆっくりと息を吐く。 肺が重い。 喉が痛む。 だがそれ以上に―― 内側が、ざわついている。 足りない、と。 もっと斬れ、と。 まだ終わっていない、と。 無月は、刀を鞘に戻す。 押し込むように。 その衝動ごと閉じ込めるように。 「……黙れ」 今度ははっきりと、言葉にした。 返事はない。 だが、静かになる。 完全ではない。 奥底で、確実に蠢いている。 それでも、今は十分だった。 森は、何事もなかったかのように戻る。 音があり、風があり、夜がある。 だが無月には分かっている。 これは終わっていない。 呪いは、外にあるだけじゃない。 自分の中にもある。 しかも、それは増えている。 確実に。 一年前より、深く。 濃く。 重く。 「……次だ」 かすれた声。 それが自分の意思かどうかは、もう確かめない。 確かめる意味が、薄れてきている。 彼女は歩き出す。 森の奥へ。 呪いを祓うために。 あるいは―― 呪いが、より濃くなる場所へ向かうために。 どちらでもいい。 どちらでも、進むことに変わりはない。 その背中には、わずかに“影”が重なっていた。 月明かりでは説明できない、もう一つの輪郭。 それは彼女に寄り添うようでいて、 少しだけズレている。 完全には重ならない。 まだ、“半分”だからだ。 十九歳の巫女は、 自分がどこまで自分でいられるのかも分からないまま、 それでも歩き続ける。 止まれば、何かに追いつかれると知っているから。 あるいは―― 既に追いつかれているのに、 気づいていないだけなのかもしれない