あの日、 あの時、 あの一瞬、 世界が一変した。 城の前に設けられた刑場。そこに鎮座するは一つの断頭台。ワンダーランドを支配する女王から不愉快の烙印を押された者が送られる処刑台。 常日頃から磨かれしギロチンは膨大な量の鮮血を啜っていながら、次なる獲物を求めて白銀の刃を煌めかす。 だがその殺戮も今日の犠牲者を以て打ち止めとなる。 何故なら、その犠牲者は女王。 無数の命を断頭台へ送った彼女自身が最後の犠牲者となるのは皮肉的でありながら、何とも因果応報な結末とも言える。 女王の死刑執行にワンダーランドの民は歓喜の声を上げていた。 永らく民衆を苦しめた傲慢で横暴な女王が死ぬと知らされ、町中はある種のお祭り騒ぎの様な状態だ。 恐怖に歪められていた彼らの顔は喜びへ変わり、町を行く人々は大声で女王の死を喜ぶ歌と共に、それを成し遂げた一人の少女を賞賛する声で溢れていた。 その少女とは別世界からワンダーランドへ来訪し、様々な冒険を経た末に女王へと反旗を掲げた救世主、と民衆は思い込んでいた。 実際に少女がそのような行動を意図的に行った訳では無く、年相応の好奇心と世間を知らぬ無知さ故が重なり合い偶発的に起きた出来事。 何よりも、強大なる権力で圧しつけた強固な支配を、一介の少女風情が打破できる訳も無く、そこには無数の悪意による暗躍があった。 少女という眩しき光の影に潜み、着実に支配体制の崩壊を仕組んだ悪しき存在の計画はあまりにも巧みで民衆たちに気取られる暇すら与えなかった。 結果、悪しき存在は少女の勇姿を騙り民衆たちを巧みに誘導し、第一段階である女王の死刑執行を達成した。 刑場には多くの民衆が集まり、今か今かと女王の死刑執行を待っている。大衆心理とは恐ろしいもので、か弱き存在も一堂に集まればそれが烏合の衆と雖も強大な力を有す。 今日に至るまでの歴史を紐解いてみれば、何ら不思議な話で無いだろう。 待ちきれなくなった一人が声を張り上げれば、呼応する様にして声が上がり始め、やがてそれは混声合唱もかくやの勢いへ過熱していく。 忌々しく民衆を睨んでいた女王の臣下もこの勢いの前には無力で、殆どが身体を震わせて目を伏せるしかない。 女王の死こそ彼らには耐え難いものだが、それでも自分の命に代わる程では無いのだ。 唯一女王からの多大なる信頼を受けていたハートの紋様を与えられた部隊だけは、民衆を射殺す様な視線で睨みつけていたが、やがては己の無力さを悩んで涙を流す。 民衆の興奮が最高潮に達し暴動へと変わりそうな瞬間、待ち焦がれた女王が現れる。 その瞬間、刑場は歓喜より来る民衆の怒涛なる殺意の声が満ちた。 多くは女王の首が落とされるのを待ち望んでいるが、あの傲慢な女王が眼前に迫った死を前に無様な助命を乞う姿を期待していた者も一部いた。どんな声で、どのような顔をして涙に塗れて叫ぶのか、そう期待する様は醜悪ではあったが興奮している者ほど今の己を冷静に見る暇は無いものだ。 しかし彼らの期待を裏切り、女王は静かに断頭台へと首を置いた。無表情な顔には死への恐怖も民衆への怒りもなく、さながら達観した様な雰囲気を漂わせている。 死ぬその時まで女王たる己を崩さないか、と醜悪な感情を抱いていた者達は些か興醒めしていたが、周囲の熱に押されて殺意の言葉を投げ始める。 女王は一度だけ臣下の方を見やり、それから静かに目を瞑り、刑の執行を待つ。 彼女は気付いていた。 あの少女の裏に潜んでいた悪しき存在たちのことを。 連中が自分を断頭台へ送ろうと、数多の策を弄したことを──── 当然女王は反抗していた。 だが、連中の策は巧妙であった。 まるでチェスの名人と試合をしている様な気分で、端から自分は連中の手の内で不細工に踊らされていたに過ぎなかった。 連中は自分の手には負えない。 死刑宣告のチェックメイトを突きつけられ、ようやく女王は理解した。 そう、自分の手には負えない。 だが別の者ならどうだろうか? 落とされたギロチンの音が迫る中、一縷の希望を女王は棄てなかった。 あの少女が再びワンダーランドへ来訪するかもしれない。 或いは別の者が現れるかもしれない。 女王は確信していた。 何故なら、少女をワンダーランドへ導いた白兎は己の配下。 この物語がそのような始まりを取る以上、その一点だけは悪しき存在にも覆せない。 落とされたギロチンが裁断する音、傾く視界を見ながら女王は僅かに笑う。 刑場は歓喜に包まれる。女王の断頭を以て、ワンダーランドは解放された。 如何に恐ろしき女王と謂えど、眼前で一つの命が消えたにも関わらず狂喜する民衆の姿はあまりにもファナティックだ。 だが──その狂喜乱舞する様こそが、今より始まるより悍ましき物語の幕開けとしてはこれ以上ない光景であった。 民衆が異変を感じたのは女王の身体の周りをエメラルドの光が包み始めた時だ。美しくも邪悪めいたエメラルドの輝きは巻き起こると共に、女王の首の断面から流れ出る鮮血が蠢く。 無数の血液が縒り合され、宙を赤い線が舞い、静かに落ちた女王の首を持ち上げる。 ピクリと息絶えた女王の腕が動くと、そのか細い腕がギロチンの刃を持ち上げ、綺麗に裁断された首と頭を繋ぎ合わせる。 首を落とされた筈の女王が立ち上がった。 気色悪いハートの模様をあしらった服が血濡れたように赤く染まり、解けた髪の間から覗く瞳は燃えるような真紅を湛えている。 民衆も臣下も沈黙するしかない。眼前で起きた超常現象に刑場は一瞬で寒気立つ様な静けさに包まれた。よく見れば女王の顔立ちは一回りも二回りも幼くなっていたのだが、当然彼らにそれを理化する時間は与えられていない。 「気分はどうかな、女王」 静まり返る刑場に響いた声。空間から滲み出る様に浮き出たエメラルドの目玉がギョロギョロと動いている。 蘇りし女王はその声に応えず、静かに民衆を睥睨している。 「……始めるぞ、兎たち」 女王の声で現れる赤いスーツの集団。 帽子を付けたウサギの被り物をしたスーツの集団は、全く統一のされていない武器を手にゆっくりと民衆へ近づく。彼らが手にする武器の煌めきは、まるで断頭台のギロチンが如き命の刈り取りを示唆していた。 沈黙していた民衆の中で一人が声を上げて逃げる。身体に溢れる歓喜は恐怖へ変わり、絶望のどん底へ叩き落とされた者が絞り出す悲鳴は瞬く間に大衆を扇動してしまう。 蜘蛛の子を散らす様に刑場から逃げ去る民衆と不気味な静けさで迫る兎たちこと、三月機関。新たなる女王の配下にして、汚れ仕事に長けた精鋭部隊。 瞬く間に民衆を捕縛していく彼らを見物する女王は、ふと自分の傍に傅く臣下の姿へ気付く。ハートの紋様を与えられた死刑執行部隊、彼らは女王の再臨を真っ先に喜び、その変わらぬ忠誠心を掲げた。 女王は心強き彼らへ兎たちと同じ仕事を与え、自らは城へと戻る。途中の自分を見つめていた臣下には目もくれず、しかし後ろからスッと近づいてきたエメラルドの目玉へは鋭く睨みつけて追い払う。 刑場に響く悲鳴は、やがてワンダーランド全体へ広がっていくことになる。 赤の女王の君臨。三月機関と血染薔薇の侵食、そして韋編悪党の跳梁、これらの力を 総動員して韋編悪党たちはワンダーランドの歪みを創り出した。 「仕込みは上々、上手いこと挿し込めたな」 黒い羽が舞い散らして烏が現れる。 「烏の旦那直々の仕込み、流石だぜ」 民衆を掻き分けて進む薄気味悪い笑みを浮かべる少女の皮を剥がし現れた洒落たスーツの狼。 「──よっと、そっちも大衆煽動ご苦労だったな」 突然その場に現れた灰色の外套と中折れ帽の男が紫煙を燻らす。 「ここがワンダーランド! 素晴らしいわぁ、良い素材が一杯!」 地面に滲んだ黒い染みから青い髪の女が嗜虐的な笑みで周囲を見渡す。 「田舎臭い所だが、実験場にするには丁度良いか」 白衣を着た博士風の初老の男が、濁った瞳を眼鏡の奥から覗かせている。 集いし韋編悪党たち。 各々が独自の野望や企みを巡らす様は、韋編悪党という組織が烏合の衆であることの証左。 野望の為なら内ゲバすら厭わない彼らも、エメラルドの大魔法使いが計画した一大プロジェクトには挙って協力を示した。 もっとも、その協力の先にあるのは自分勝手な野望なのだが。 「よいか、まずはワンダーランドの完全掌握を実行する。玩具にするのはそれからだ、良いな?」 エメラルドの大魔法使いの言葉に各々が動き始める。 それでもエメラルドの大魔法使いは不安を拭いきれない。赤の女王を手駒にはしたが、連中がどのような手段でこちらの足元を掬うか分かったものでない。 何よりも不安なのはワンダーランドに訪れる者の存在。 エメラルドの大魔法使いは自然とアリスという名の少女に、かつて己の国へ危機を招いた一人の少女の姿を重ね合わせていた。 一匹の犬、三名のお供を引き連れ、エメラルドの国へ辿り着いた──あの小娘のことである。