それは、名を与えられる前の話。 赤塚 苦藻は、平安の都の奥、天皇の血を引く娘として生まれた。 だが産声が上がった瞬間、その場の空気は凍りついた。 顔は歪み、肌は病のように濁り、祝福されるべき姫の姿ではなかった。 乳母は目を逸らし、陰陽師は「穢れ」と呟いた。 その日、彼女は“娘”ではなく、“異端”になった。 まだ言葉も知らぬ幼子のうちに、夜の闇へと捨てられた。 都の外れ、誰も近づかぬ荒れ地。 抱きしめられた記憶はなく、あるのは冷たい地面と、腹を刺す空腹だけだった。 人に見つかれば、石が飛んだ。 「醜い」「化け物」 言葉は理解できなくとも、憎しみだけは伝わった。 魔法や呪いが当然に存在するこの世界で、人々は彼女に向けて躊躇なく力を振るった。 彼女は逃げることしか知らなかった。 けれど、時間は歪んでいた。 一日、また一日と過ぎるうちに、体は異様な速さで成長した。 気づけば、十五ほどの娘の姿になっていた。 それ以上、歳を取ることはなかった。 ある朝、指先から白く濁った糸が溢れていることに気づいた。 蜘蛛の巣のように細く、冷たい糸。 最初は恐ろしくて振り払おうとしたが、糸は離れなかった。 やがて、糸は“役に立つ”ことを知る。 遠くの食べ物を引き寄せ、夜露を避ける寝床を編み、寒さを防ぐ羽織を形作った。 汚れた白の羽織は、彼女の唯一の居場所だった。 そして、ある日。 糸が、動いた。 人の足が止まり、視線が逸れ、手が勝手に震えた。 感情が揺れ、恐怖が膨らみ、魔法が歪んだ。 糸は、感情も、行動も、五感も、呪も――すべてに絡みつく。 理解した瞬間、彼女はさらに孤独になった。 糸が溢れる限り、誰も彼女に触れられない。 近づこうとすれば、糸が勝手に絡み、相手を操ってしまうからだ。 人ではなく、蜘蛛。 娘ではなく、化け物。 噂は都に広がった。 「糸で人を操る怪異がいる」 「陰に潜む蜘蛛の化生だ」 陰陽師たちは討伐を決めた。 彼女は言葉を知らない。 助けを乞う声も、弁明も、祈りも持たなかった。 ただ、醜く。 ただ、寂しく。 糸に包まれ、闇の中で息を潜めながら、 彼女は今日も人の気配を避けて生きている。 赤塚 苦藻―― 醜さゆえに捨てられ、 力ゆえに孤独になった、 平安の世に生まれた、静かな異端児。 【醜く寂しい者】