村瀬久四郎は、播磨国の港町に生まれ育った下級武士であった。藩の小さき身分に生まれた彼の家は、戦に明け暮れることもなく、日々の勤めと領内の警備に追われるばかりであった。だが、久四郎の胸には常にひとつの思いがあった――世界を見てみたい、侍として己の道を広く知りたいという欲求である。 藩の城下町では、若き武士たちが儀礼や藩の規則に縛られ、剣の技を磨く日々を過ごす。久四郎もまた剣の鍛錬には励んだが、我流の技に傾き、常に新しき工夫を試みていた。そのため、同輩からは異端視され、時折藩の役人からも注意を受けた。しかし、彼の剛直で好奇心旺盛な性格は曲げられるものではなかった。 ある夜、港に面した家の縁側で、久四郎は月光に照らされる波を見つめながら呟いた。 「この海の向こうに、我が侍の世界があるはず……」 漠然とした遠い世界への憧れは、次第に確かな決意へと変わっていった。藩に留まれば日々は安定している。だが、己の心は雑事に押し潰され、刀を握る手が虚しく空を切るように思えてならなかった。 蘭(※現在のオランダ)の商船が港に停泊する日、久四郎はその船を見つめ、鼓動を高めた。船体には見慣れぬ文字が並び、異国の香りを帯びた布や金具が甲板に散らばっている。彼の目に映るそれは、未知なる世界への入り口であり、侍としての誇りを試す場でもあった。 決意は固まった。藩を離れ、海を渡り、広き世界に己の眼で触れる。だが、それはまた、故郷との別れでもあった。家族や仲間、馴染みの町並み――それらはすべて、己が選んだ道の代償である。久四郎は刀を握り、肩に小さな旅道具を掛けると、港の波間に揺れる商船の影を見つめ、息を潜めた。 その夜、彼は忍び足で甲板へと上る。異国の人々の声、船底から響く軋み――すべてが久四郎に新鮮な刺激を与えた。海の向こうには何があるのか。自らの技は通用するのか。下級武士でありながら、世界を夢見る若侍の冒険は、まさにこの瞬間、始まろうとしていた。