「……は?」 きょろきょろと何かを探すように、これが現実じゃない証拠を見つけようと少年は辺りを見渡した。 しかしーー、 視界いっぱいに広がる緑、いっそ気持ち悪くなるほどに豊かな自然の匂いがこれはリアルだと告げてくる。 「なんだよ、これ」 ぐちゃり、と制服が汚れるのも気にせず、少年、小鳥遊奏太は地面に尻もちをついた。 彼がここに来たのは、ほんの数分前のこと。 勿論彼は散策に来たわけでも、旅行に来たわけでもない。学校に行く途中、何の変哲もない通学路を歩いている内に一瞬立ちくらみを感じたと思ったら、ここにいたのだ。 『…すけて』 「…っ!」 そして思い出す、あの瞬間、ノイズが走ったメッセージ、まるでピンぼけした動画のように顔が曖昧な、かろうじて女性とわかる人物が何かを言っていた。 そう、あれはまるで助けを求めるようなーー、 「いや、それより」 欠けた記憶に頭が痛む。 それを振り払うかのように奏太は頭を振った。 「マジでここどこだ…?」 立ち上がり、改めて周りを見渡す。 見覚えのあるものなど何一つなく、そもそも人工物すら一切ない。あるのは木と葉、地面と小さな岩、それだけだ。 木々の一本一本があまりにも高すぎて空を遮っている。入り込む光も木に遮られ、幾つもの影が森を区切っていた。 とても現実とは思えない。 もちろん、ヨーロッパとかアマゾンとかそういう場所なら有り得るのかもしれないが、如何せん地理のテストは毎回赤点ギリギリの奏太には思いつくような場所がなかった。 それよりも思いつくのは、慣れ親しんだ漫画やアニメでよくみる”あれ”。唐突に見知らぬ土地へ、正確には世界へ飛ばされるーー、 「もしかして、異世界ー」 「ーーーー!!!」 少年の言葉は最後まで紡がれることなく、甲高い声に掻き消された。そして、続いて聞こえる木を砕く音。 「え……」 ひゅっ、と呼気が漏れる。 振り向いた先にいたのは、2mはありそうな体躯の二本足で立つ狼…のような何か。 爛々と光る瞳は血のように赤く、舌を出した口から飛び出た牙は否が応でも獲物を引き裂くものだ、と教えてくる。 木々の隙間から歩いてくる、そいつを前に奏太は逃げ出そうとしてーー、動けなかった。そいつの圧倒的な生命力、存在としての圧に足が震え、動いたつもりなのに動くことが出来なかった。 奏太が《人狼》の声は生物を金縛りにする力を持っているのを知るのは、まだ先のことだった。 逃げないと逃げないと逃げないとーー! 額から滲んだ汗が頬をつたり唇に触れた瞬間、微かな塩味が奏太の金縛りを解いた。 「ぅぁああああああ!!」 本能的に出てしまう絶叫を上げながら、一目散に走り出す奏太。柔らかな地面を蹴り、少しでも距離を離そうとがむしゃらに足を動かす。折れた枝や小さな岩に足を引っ掛けなかったのは幸運と言っていいだろう。 しかし、そんなものはなんの意味もなかった。 脈絡もなく、微かにゴムを無理やり引きちぎるような音が耳に入った時には奏太は転んでいた。顔面から地へ突っ込み、勢いそのままに枝や小石がヤスリとなって顔を削る。 痛みよりも先に何が起こったのか、と混乱し、身体を起き上がらせようとしてーー、 「んぇ?」 思わず出てきた間抜けな声。 呆けたようなその声はあまりにもあんまりな現実を直視しない為の防衛本能だったのかもしれない。 先程まであった地面へ立つために必要な二本の足、そのうちの一本、右足の膝から先が無かった。 「ぁあああぁああああ!!!!」 現実を理解すると同時に襲いかかる激痛。 焼けるように熱く、ただ喉から声を迸らせることしか出来ない絶え間ない痛み。 絶叫を上げながら、それでもなお、近付いてくる狼頭の化け物に気付いたのは幸か不幸か。 ひっ、と息を引き攣らせながら、残った腕で後退る。死ぬ、アレがきたら殺される。本能で理解した死の気配に痛みよりも生存本能が勝り身体を動かす。 しかし、くちゃくちゃと狼が咀嚼する音、口からはみ出た足を見た瞬間、それも止まった。 餌、肉、食物、喰われるという原初の恐怖は奏太の心を折るのに十分だった。 「なんでだよ、なんでだよ、なんでだよぉおおお!!!!!!」 意味がわからなかった。 いきなり知らない場所に来て、 いきなり知らない化け物に襲われて、 今そいつに喰われようとしている。 いっそ気を失えれば楽だったかもしれない。 だが、右足から伝わる痛みがそれを許さない。 化け物は表情を嗜虐色に染めながら、ゆっくりと歩いてくる。まるで奏太の恐怖心を味わうかのようにゆっくりと。 艶やかな毛並みが見える距離、むせるような獣の匂い、自分を見下ろす人狼を奏太はただ呆然と見ることしか出来なかった。 振り上がる人狼の腕、その鋭い爪は人間の体など簡単に切り裂くだろう。それよりも先に丸太のように太い腕が奏太の身体を押し潰す方が先かもしれない。 走馬灯が見えることもなく、悪態を着く暇もなく、その腕が振り下ろされ、大きな手が奏太の顔面を推し潰そうとして、 「《停止<イサ>》」 ぴたり、と止まった。 「なんとか間に合いました」 上から降ってきた声。 僅かに見える木の枝から落ちてくる何か、いや、誰か。 「《巨人<スリサズ>》」 続けて放たれた言葉。 大きい声ではないのに響く音。 世界の法則に組み込まれた『力ある言葉』が形を成し、物理的な衝撃となって人狼を吹き飛ばす。 「ーー〜〜!?!!」 太い木の幹をへし折るほどの威力で叩きつけられた人狼の痛みは如何程か、声にならない叫びが森に響き渡る。 「大丈夫……なわけありませんね」 数瞬前まで人狼のいた場所に降り立つ青髪の少女。 振り向いたその顔は無表情。紡いだ言葉に含まれた心配の色を顔から読み取ることは出来ないが、奏太に害をもたらす存在ではないことはわかる。……少なくとも、今この瞬間は。 「あ、あんたーーぁ?」 奏太の身体がふらりと傾ぐ。 血を失い過ぎれば死ぬ、そんな当たり前の論理を思い出しながら奏太は失われた足を見ていた。 「まず治療が先です」 咄嗟にしゃがんで奏太を支えた少女が有無を言わさぬ口調で指先を胸元へ突きつける。 「《生命<インガズ>》」 瞬間、光り輝く文字が宙に浮かぶ。 効果は劇的だった。 虚ろな目でそれを見ていた奏太の瞳が力を取り戻す。細胞一つ一つが活性化するように脈動する。出血が止まり、それどころか若干ピンク色の肉が盛り上がった。 「《枝<ベアコノ>》」 続けて重なるように刻まれた文字が《生命》に方向性を与え、より強く効果を発揮する。 「は?え?」 最早この短時間で何度驚いたかわからない奏太だったが、身に降りかかった奇跡にそれが更新される。 盛り上がる肉、骨が伸び、肉がつき、皮膚が戻ってゆく。ほんの僅かな痛みと虚脱感、代わりに得たのは”新しい足”。 活力の戻った身体を起こし、足をぺたぺたと触れてみる。ほんのり暖かい皮膚、男なのにすね毛のない綺麗な肌、間違いなく自分の足だ。 「問題ないようですね」 ショートボブに整えた髪を揺らし、すくっと立ち上がる少女。 彼女を見上げようとして、丁度視線の高さにあったスカートの端から覗く白い肌に気恥ずかしさを感じ、慌てて視線を逸らす。 「あ、あんた、一体誰なんだ?」 「私は……いえ、お話は後にしましょう」 彼女の視線を辿れば、立ち上がる人狼の姿。 牙を剥き出しに口角を釣り上げたその顔はどう見ても怒り心頭といった感じだ。 喉が鳴り生唾を飲み込む。 早く逃げよう、そう告げようとした奏太だったが、それよりも早く少女は腰のベルトについたポーチから細い香木を取り出す。 「貴方はそこで見ていてください」 少女が指に挟んだ香木を口に咥え先端に火を灯す。 呼吸と共に吐き出される白い煙、見た目にそぐわず清涼な香りが奏太の鼻腔をくすぐる。 煙を纏う少女を人狼が睨みつけていた。 彼は先程の魔術、少女の力を忘れていない。同種が扱う魔法と同じ異法則を操る力。警戒とも威嚇ともつかぬ呻き声のような音が人狼の喉から漏れる。 「攻撃こそ最大の防御です。こないならこちらから行きますよ。《車輪<ラド>》」 呟きと共に空に散る光、移動を意味する力ある言葉が少女の足に宿る。 瞬き一つ、奏太の目の前から姿が消える。 気付いた時には人狼の手前まで迫る少女。人狼は咄嗟に後ろへ飛び退ろうとするが少女の方が早かった。 「《巨人<スリサズ>》」 人狼に見えたのは影だけ。青い残像が視界を走る。 地面を蹴り、2m近く飛び上がった少女が彼の側頭部へと足を叩きつける。ハンマーを叩きつける音を何倍にも増幅したような破壊的な音と共に人狼が吹き飛んだ。 されど、流石と言うべきか人狼もさるもの。先程のように無様な姿を見せることなく、空中で姿勢を正して着地すると、四つん這いの状態から後ろ足で地面を蹴り上げ、土を巻き上げながら少女へ突撃する。 「《守護<アルジズ>》」 矢の如き突進は、しかして少女の発した言葉によって阻まれ、見えない壁へと衝突する。押しても爪を突き立ててもびくともしない障壁を前に人狼が一瞬の逡巡ーー、その隙を見逃すはずもなく、無機質な金色の瞳に人狼を映した少女の唇が動く。 「《太陽<ソウェイル>》、《巨人<スリサズ>》」 ゴォ!と障壁の向こう側で炎が膨れ上がり人狼を包み込む。完全に制御された炎は少女の意思に沿って燃やすべきものだけを燃やしていく。名剣をも弾く毛が一瞬にして黒く縮れ、肉はあまりの高音に溶け落ちる。 「ーーー!!???!?」 声にならない絶叫をあげる暇もなく、口から入り込んだ炎が喉を焼き、眼窩から火が吹き出す。 燃えながら頭を抱えのたうち回る人狼。 先程まで喰われそうになっていたにも関わらず、奏太が可哀想と思ってしまうのはまともな証拠だろう。 目の前で肉が焼けこげる臭いを嗅ぎながらも少女は淡々と死にゆく命を見つめ続けている。 ぱちぱちともぷすぷすとも聞こえる空気の弾ける音がする頃には人狼は真っ黒な炭の塊となっていた。 「さて…」 ぐるりと振り返る少女。青い髪をショートボブにまとめ、小柄ながらも女性らしい丸みを帯びた肢体の彼女は一般的に美少女と言えるに違いない。 「ひっ」 しかし、その金色の双眸に見据えられた奏太の口から出てきたのは恐怖。 それはそうだろう。確かに助けてくれたのは間違いない。しかし、だからといってこんな見知らぬ土地で出会った人間が味方であるとは限らない。 助けられて傷を癒してもらって、だからといって目の前で見せられた暴力を受け入れられるほど奏太は柔軟な精神の持ち主ではなかった。 「…?」 きょとん、と。 奏太の反応がわからず、小首を傾げる少女。 「あ、あんた一体誰なんだ!それにここはどこだよ!」 叫ぶ奏太。 正直もう限界だった。 この場所も、さっきの化け物も、目の前にいる少女も、何一つ理解出来ない。 だから、思わず詰問するような口調になってしまったが、少女は気にする風でもなく、一口香木を吸い、煙と一緒に言葉が紡がれた。 その瞳にはほんの少しばかり誇らしげな色が見えて、 「私はルルーナ。先代勇者の弟子にして、今代勇者である貴方の師匠」 「は?」 返ってきた言葉も何一つ理解できなかった。 これが小鳥遊奏太とルルーナの始まり。 後の世で世界を救う十二人の英雄にも数えられる《残骸の勇者》と《破壊の魔女》の出会いだった。 ーーーーーーーーーーーーーーー ルルーナ・カーネル 古代において魔族に対抗するため造られた人工魔人<マギアート>シリーズのラストロット。 マギアート達はそれぞれにコンセプトがあり、ルルーナのコンセプトは<上位魔族に匹敵する魔力量>である。高位の魔術師ですら中位魔族に劣る魔力量しか持たないこの世界において破格の魔力量を誇る。 その魔力を用いて目覚めさせた勇者がにわか知識で教えた架空の魔術である【ルーン】を無理やり成立させている。 偽りの法則で現実を書き換える魔術において、その魔術理論自体が偽りの【ルーン】はとてつもなく燃費が悪く、ルルーナ以外に使い手は存在しない。 但し、一文字で数多の概念を操作することが出来る【ルーン】の効果は破格で速度も連射性も他の魔術に追随を許さない。 見た目は青い髪をショートボブにまとめた少女で、無表情気味なのと金色の瞳も相まってミステリアスな雰囲気を醸し出している。 数百年ほど前、先代勇者と共に世界を旅し魔神討伐を成し遂げた。その後、相思相愛だった勇者と結婚。彼からもらった苗字は2人だけの秘密であり、誰にも教えてない。 魔神の遺言を研究していた勇者は後の世でも勇者が現れることを知り、地球と異なる暴力が支配するこの世界で生き残る過酷さを同胞に味わせない為、不老不死であるルルーナに鍛えてやって欲しいとお願いした。 愛しい旦那の願いで奏太を育てることになるが、アメリカ人であった夫と日本人である奏太の精神性の違いに戸惑っている。 この世界で一般的に信仰されている輪廻転生を信じており、いつかまた夫と再会出来る日を夢見ている。 香木を吸っているのは煙草を吸っていた夫に少しでも同じ時間が欲しかったから、そして吸う限りは夫のことを忘れずに済むから。