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【タフな中戦車】クルプ・エイチ

※関西弁は気にしないで下さい。 「おっ!初めましてやなぁ〜 私はドイツの四号戦車H型、クルプ・エイチ〜言うねん!結構大戦中は頑張ったんやで〜?まずはⅢ号ちゃんを後ろから支える『支援戦車』ゆうて活動してたんやぁ?ほんだら独ソ戦ちゅーもんが始もーて『T‐34』が立ちはだかってん!ほんだらおえらいさんが私のこと大改造したんや!主砲変えて〜?装甲増やして〜?もう何から何まで変えちゃって?『F2型』なったも思たらすぐG型なっててんやわんややで~!でもこん時からⅢ号ちゃんと変わって主力なってん!まぁほんで色々あってぇ〜最終的にドイツでいっちゃん作られた戦車になったんやぁ!」 四号戦車は三号戦車とともに開発された。この時三号戦車は主力として開発されたのに対し、四号戦車は火力支援車両として開発された。開発名称は「BW」とされ、1935年〜1936年にクルップ社・ラインメタル社・MAN社の三社による開発競争が行われた。その結果クルップ社の案が採用に決まり、制式に「四号戦車」の名前がつけられた。B型及びC型は試作的な生産に終わり、D型から本格的な生産が始まった。大きく設計した砲塔には24口径75mm砲を備え、懸架装置は三号戦車よりかは劣るが信頼性の高い板バネ式ボギー式を採用、そして最大装甲厚は30mmと登場当初は十分な性能だった。(主砲の口径長が小さいように見えるが、榴弾発射を想定していたためこの程度で良いとされている。)そしてその後も細かな部分が改良したE型・F型が生産された。だが突然四号戦車は三号戦車とともに窮地に立たされる。独ソ戦中の最強ソ連製中戦車「T-34」が立ちはだかったのだ。四号戦車の主砲ではT-34の前面装甲は抜けず、一方的にやられる状態になってしまった。しかし四号戦車はここで急成長を遂げる。元々G型に搭載予定だった43口径75mmをヒトラーの指示により生産ラインのF型に搭載し、さらにT-34の砲撃も耐えれるよう50mmに装甲厚を増やしたのだ。コレによりKV-1はともかく、T-34/76には十分対抗できる性能に達したと言えた。この型は「F2型」と呼ばれ、1942年2月〜6月という短期間で生産が終わっているため後に「四号G型」と統合されている。そしてこの時期から改良の限界に達した三号戦車N型に打って変わって四号戦車G型が主力戦車となった。その後、さらに主砲の口径長を48口径に伸ばし、装甲厚も70mmに増加、成形炸薬弾に対処するためのシュルツェン(追加装甲板)を砲塔側面と車体側面に取り付けた「H型」などが生産され、終戦までに約8000輌というドイツ戦車史上最多の生産台数となった。(装甲戦闘車輌で考えるとⅢ号突撃砲が一番生産台数が多い。) 四号戦車は生産途中に開発・登場した、高性能の「Ⅴ号戦車パンター」、連合軍の戦車をすべて凌駕する「Ⅵ号戦車ティーガー」を差し置いて敗戦まで主力を貫き通した「信頼」の中戦車だった。