## 『悪食の魔女』の過去 *—グラーテル・ポンブラード、十歳の誕生日の記憶—* --- 灰色の空が広がるその日、グラーテルは十歳になった。 だが、祝いの言葉など一つもなかった。 「ちゃんと笑ってなさい、グラーテル。女の子は笑顔が一番って言ったでしょ?」 口元を無理に吊り上げながら、彼女は扉の向こうの視線をやりすごした。 今日もまた、"良い子"を演じる舞台の幕が開く。 --- 彼女は厳格な孤児院で育った。 そこに名前などなかった。 子供たちは「役割」と「見た目」で呼ばれるだけだ。 「グラーテル、今日の家族訪問用の練習、ちゃんと覚えた?」 「はい、先生。『わたしは家事も裁縫もできます。おとなしくて、いい子です』」 「よろしい。あなたは"失敗作"じゃない。立派な"商品"になりなさい」 --- あの孤児院では、子供たちは夢を見てはいけなかった。 「希望」などは毒でしかないと教えられていた。 それでも——心のどこかでグラーテルは願っていた。 *"私も、ただの子どもでいたかった"* *"誰かに、ただ愛される存在になりたかった"* --- 十歳の夜。 雨は冷たく、窓の外には誰の姿もなかった。 「……スキルが発現するって、言ってたけど……儀式なんか、ないよね」 独り言のように呟いて、グラーテルは古びたベッドに身を投げた。 その時だった。 世界がぐにゃりと歪んだ。 胃の奥が焼けるように熱くなり、喉元に黒い何かが込み上げてきた。 ――*飢え*。 それは肉体の飢えではない。 もっと、深く、もっと……壊れていた。 *「何かを……食べたい……」* 誰かの声がした。けれど、それは彼女自身の声でもあった。 --- 次の日、孤児院に視察団が訪れた。 厳格な養育官たちは、グラーテルに完璧な振る舞いを求めた。 「お客さまにはお辞儀をして、感情は抑えて。女の子らしく。ね、グラーテル?」 彼女は頷いた。 けれど、その目は、虚ろなまま光を失っていた。 --- 視察中、ひとりの少女が小さく言った。 「グラーテルって、本当はすごく変なんだよ。夜中に食べ物もないのに、何かかじってるの。こわい」 その瞬間、空気が凍った。 そして、大人たちの“理想”が落ちてきた。 「……何をしてるの、グラーテル。そんな子じゃ、どこにももらわれていけない」 「あなたは"いい子"になりなさい。"普通"になりなさい」 「夢なんて、見ないこと。希望なんて、いらないこと」 「あなたは、私たちの望む――『製品』であればいい」 --- その言葉が、彼女の中の何かを引き裂いた。 次の瞬間、グラーテルの口が、ゆっくりと開いた。 「…………うるさい」 視察官の女性の声が、ぷつりと消えた。 空間が歪み、言葉が泡のように崩れ落ちる。 その場にいた大人たちの「理想」も、「使命」も、「規範」も―― **食われた。** 誰も叫ばなかった。 叫びさえも、飲み込まれてしまったのだから。 --- 次に彼女が目を開けたとき、孤児院は……ただの「灰」だった。 建物、家具、そして人――すべてが残らず「喰われ」、消えていた。 彼女のスキルはこう呼ばれることになる。 **【悪食】――夢、希望、魔法、命……食べられるものは全て食う、終焉の飢え** --- その日から、彼女はひとりで歩き始めた。 誰も愛してくれなかった。 ならば、自分も、誰も愛さない。 空腹は、いつまでも止まらない。 食べても、食べても、満たされない。 けれど、彼女の瞳にはもう、涙など一粒も残ってはいなかった。