その日は、リントにとって最悪の一日だった。 『付呪術』の強度を高め過ぎたことで、肋骨にヒビが入っていたのだ。ただ寝ることすら痛みに阻まれて不可能だった。 「持ち物を全部置いてけ、ガキ」 街の路地裏に住むリントにとっては、こういったゴロツキの相手は日常茶飯事だ。しかし、肋骨の不調を抱えたままでは、軽くあしらうとは言えない労力もかかるだろう。 リントは仕方なく、手加減をせずに仕留めてしまうことに決めた。 「はあ……《アリア──」 「コラーっ!何をしているんですか?!」 太陽も途切れる路地裏に、明朗な声がすうっと通り抜ける。 声の主は、コーラルピンクの艶やかな髪と、まるで紅玉のような瞳を持った少女だった。 「おい、見世物じゃねーぞ!ガキは帰れや!」 ゴロツキの罵声にも怯まず、騎士の鎧を着用し、剣と盾を携えた少女は怒った表情をしながらズンズンと歩み寄って来る。 「君、本当に帰った方が……」 「『フラッシュ』!」 閃光。光の魔法が炸裂し、リントは思わず立ち眩んだ。 「逃げますよ!」 何がなんだか分からないまま、リントは手を引かれる。華奢な少女の見た目からは想像もつかない力で、抵抗を許されなかった。 「っ……はぁっ……う……」 当然のことながら、肋骨にヒビが入っている人間は運動をしてはならない。患部に衝撃が入れば骨は更に軋み、どう治るか分からないからだ。 「わわっ!?大丈夫ですか!?」 尋常でない量の脂汗をかいているリントを見て、ただ事ではないと感じたのか少女は立ち止まる。 「骨にヒビが入ってるんだ……ここまででいいから、放っておいてくれ……」 「なら尚更、置いていくわけにはいきません!『ヒール』!」 じんわりと温かみのある魔法の光が、少女の手からリントの胸部へと流れ込んでいく。 そうして一分が経ったが、少女は真剣な眼差しのまま回復魔法を止めない。 「……ねえ、これいつまでやるの?」 リントは無言の間に耐えられず聞いてしまった。 「骨折は少しずつ治さないとダメなんです!焦ったら骨が変な形になってしまいますよ!」 「……そこまでする意味はあるの?ただ通りかかっただけでしょ?」 リントのその言葉に、少女は顔を上げた。 「そういえば、名前を言っていませんでした。わたしはルビィ・コーラルハートです。あなたは?」 名前通りの双つの紅玉に見つめられて、リントはぐ、と言葉に詰まった。 「なんで怒ってるのさ」 「怒りますよ、自分自身を大切にしない人を見たら」 「だから、なんで」 「そういうものなんです!はい、どうですか?まだ安静にしておいて欲しいですが……」 気がつけば、リントの肋骨が訴える痛みはほとんど消えていた。 「すごい……」 リントのいつもの大人ぶった口調も、痛みから解放されたこの時ばかりは消え失せていた。 「えへへ、ありがとうございます。それでは、あなたのお名前は?」 「……リント・イスト」 それからというもの、ルビィ・コーラルハートは毎日リントの様子を見に来た。リントが「もう治ったよ」と言っても、構わずにやってくるのだ。 「それで、君はどうしたの?」 「えっとですね、バイソンの群れの僅かな隙間をめがけて、『クリスタル・スラスト』でダークシャドウの核を突き刺したんです!そのまま『フラッシュ』を使って倒しました!」 ルビィは冒険者なのだそうだ。今話をしていたのは、ダークシャドウという魔物がバイソンの群れを操っていたのを、ルビィが鎮圧した時のことである。 「リントさんは冒険者にはならないんですか?」 「私はそんなに強くないからね……『付呪術』はメインで使うもんじゃないんだよ、多分」 「強くなくたって冒険者にはなれます!わたしも最初は全然戦えなかったですけど、少しずつ……」 「君には才能があったんじゃないの?私はここが限界だよ、『付呪術』だけ、それが全てだ」 リントが突き放すように言っても、ルビィは毎日この調子で話をしに来る。 「君はいつまでこうするつもりなの?私に何を言っても意味が無いって、そろそろ分かったんじゃない?」 「この街を離れるまでです!それまでにリントさんを冒険者にします!」 おや、とリントは思った。ルビィはただなんとなく話に来ていたわけではなかったのだ。 「ずっとこの街にいるわけじゃないんだね」 「あちこちを旅する冒険者ですから!では、わたしは依頼に行ってきます!」 忙しなく走っていくルビィの小さな背中が、リントには大きく見えた。 次の日、ルビィは来なかった。 あれだけリントを冒険者にすると息巻いていたのだから、諦めたわけではなかろう。依頼で何かあったのだろうか。 リントは路地裏の湿る空気の束を振り切って、一歩踏み出した。 ── 「『ガード』!ぐうっ?!」 ルビィが受けた依頼は決して簡単ではないが、不可能ではないはずだった。街道に出没したゴブリンやコボルドの掃討…… 「グゥ……」 しかし今ルビィの目の前にいるのは、オーガだった。 オーガの膂力は人など優に超え、知能の高い個体は魔力による身体強化さえ行う。過去にはスキルを習得するまでに至ったオーガに、二つの村と一つの都市が滅ぼされたという。 「ゴアッ!」 「『ガード』ッ!」 ルビィの身長の二倍近いオーガの巨躯から、拳が振り下ろされる。その度に『ガード』を使っても、衝撃が体まで抜けてくる。敗北は時間の問題だった。 背中を向けて逃げるのも成功率が高いとは思えなかった。オーガの走る速度はその辺の四足獣を凌駕し、かつ人よりも高い持久力を備えている。 一発逆転を狙おうと思っても、今のルビィの武器は突破力に優れたランスではなく、小回りを重視した剣なのだ。オーガと遭遇するなど予想だにしなかったのだから、運が悪いとしか言いようがない。 「ゴアァッ!!」 「なっ……!」 ルビィは時間がゆっくりと流れるように感じた。オーガが今までよりも、ほんの少しだけ強く殴りかかった。それだけで、ルビィは死を覚悟した。 走馬灯か。『ガード』すら間に合わないが、盾を体の方へ引き寄せようと力を振り絞る。 「《アルトロ》」 瞬間、ルビィの盾に青く光る魔法陣が刻まれる。オーガの拳は盾に阻まれて、否、その拳は抉られたように陥没していた。 「リントさん!」 「ちょっと、前見てよ」 リントの『付呪術』によって、オーガの一撃を防ぐことができたのだった。 「言っとくけど、私は本当に戦えないからね?《エル》、《オルト》!」 《エル》の付呪がリントとルビィの体に付与され、青く光る魔法陣が肌を覆う。 《オルト》の付呪はそれぞれの剣を強化した。 「グアァッ!」 「『ガード』!リントさん!」 《アルトロ》の付呪の効力が残った盾は、『ガード』のスキルの力を借りてオーガの拳を跳ね上げた。 「せいっ!ちょっと、私に剣を振らせないでくれよ!」 「ギアァ?!」 リントの銀の剣がオーガの脇を切り裂いた。 「戦えるじゃないですか!?嘘つかないでくださいよ!」 「口論してる場合じゃないんだけど?!ああ、もう、面倒だから一気に終わらせてよ!《アリアセア》!」 一際大きく輝く魔法陣が、ルビィの剣を彩る。魔力が脈打つような感覚がする。 貫ける──確信。ルビィは覚悟を決める。 「グゥッ……!?」 リントはいつの間にかオーガの背後から、剣の一撃を叩き込んでいた。 「今だ、やれえぇっ!」 「《アリアセア》スラストッ!」 大きく踏み込んで、突き出す。 魔力による身体強化と『付呪術』の強化、たったそれだけだが、洗練された打突が放たれた。 青く輝く剣はオーガの首を貫いて、深く突き刺さった。オーガは一度ガクンと動いたが、その後は脱力し物言わぬ骸となった。 ── 街道でのオーガの出没と、それを倒した二人の“冒険者”の噂は、すぐに街中に広まった。 ルビィは冒険者ギルドから出ると、脇目も振らずに増額された依頼の報酬を持って、リントと共にケーキのおいしいお店へと向かった。 「あのさ、なんで既に私が冒険者ってことになってるの?」 「オーガの討伐に貢献した人物が何の報酬も得ないなんてありえませんから!わたしがギルド長に直々に申し立てました!」 「頼んでないんだけど……」 リントはわざとらしく溜息をつくも、ルビィはケーキに夢中なようで反応は無かった。ブラックコーヒーをグイッと呷って、まあ、と続ける。 「こういうのも悪くない」 「そうだ、明日一緒に依頼に行きましょう!」 「え、いきなり?流石に休みた……」 「わたしはもうそろそろこの街を離れてしまうので、その前にできそうな依頼は明日しかないんです!お願いします!」 「……分かった、分かった。一回だけね」 その後、二人の少女が依頼を受ける姿が何度か目撃されたそうだ。