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【 遺伝子操作された茸 】KNK-086

「Z-106およびKNK-086に関する極秘報告」 研究員F 個人記録ファイル #E04/21(未提出) Z-106の開発が打ち切られた日、私は不思議なほど冷静だった。 機体番号Z-106――人間の神経構造と筋肉組織を模倣し、高い同調率と精緻な操作性能を誇る次世代型有人機体。 まるで“機体そのものが肉体の一部になった”かのような制御感覚は、我々が追い求めた理想の到達点だった。 唯一完全同調に成功したのは、操縦者E。 彼の同調率は初期段階から群を抜いており、「この機体に乗るために生まれた」とさえ言われた。 しかし、その才能はやがて呪いへと変わる。 記憶の断片が抜け落ち、夢と現実の境界が曖昧になり、幻覚や攻撃的な言動が見られるようになった。 そして最終的に、彼は自分の身体が「機体の部品である」と語り始めた。 最後に彼が発したのは、たった一言―― 「Z-106が呼んでいる」 その後、Z-106の廃棄が正式に命じられた。 私は命令に従ったが、数名の研究員たちは違った。 彼らは機体を密かに回収し、旧研究棟の地下保管庫へと移した。 「動かなくてもいい。ただ、そこにあってほしい」 彼らのその気持ちは痛いほど分かる。私もZ-106の設計美に取り憑かれていたのだから。 保管庫は封鎖され、電源も完全に遮断された。 しかし、静寂の中で異常は始まっていた。 最初の兆候は、作業員の報告だった。 「空気中に黄色い粉が漂っている」と。誰も気に留めなかった。 だが数日後、Z-106の装甲の隙間から、小さな白い茸が発見された。 半透明で、かすかに鼓動しているように脈動していた。それは明らかに、“生きている”ものだった。 KNK-086――その名が脳裏をよぎった。 かつて兵器応用を目的として我々が開発した人工寄生茸。 兵士の神経に寄生し、外部からの信号伝達を安定・強化することで、より正確な操縦と命令実行を可能にする構想だった。 理論上は画期的だったが、自我の混濁、幻覚、情動制御の破綻など、深刻な副作用が判明。 倫理的問題を含め、プロジェクトは早期に凍結・破棄されたはずだった。 それが、なぜZ-106に寄生していたのか。 なぜ現れたのか。答えはない。 だが奇妙なことに、誰もその事実に驚こうとしなかった。 KNK-086の存在を、誰もが“もともとそういうもの”として受け入れていた。 「元からこの仕様だったんだろ?」 「……よくできてる」 そう口にする彼らの表情は、どこか遠くを見ていた。 不自然なほど静かな狂気が、研究棟の空気に滲み出していた。 私自身もまた、次第に思考が鈍っていくのを感じていた。 そしてある日、保管庫からかすかな“打音”が聞こえた。 何かが、内側から壁を叩くような音。 それは不規則に、しかし確かに、何かの“目覚め”を告げていた。 そして――ある朝。 保管庫のロックが解除されていた。 監視カメラの映像は欠損。ログも消えていた。誰もアクセスしていないことになっていた。 Z-106は、忽然と姿を消していた。 不思議なことに、誰も騒がなかった。 それどころか、誰一人としてZ-106のことを話題にしなかった。 私もまた、その“空白”を口にできずにいた。 言葉にしようとするたびに、喉の奥が冷たく硬くなり、思考が霞んだ。 いや――気づいていて、気づきたくなかったのかもしれない。 あれが“どこへ行った”のか。 どうして“誰も気にしていない”のか。 その答えを知ることは、もう誰にもできない。 ただ一つ、確信している。 Z-106とKNK-086は、もはや兵器ではない。 それは意思を持ち、形を変え、静かに“次”を探している。 誰かに命令されることもなく、誰かに制御されることもなく。 それ自体が、目的であり、生き物であり、存在そのものとなったのだ。 そして、もしまたどこかで“発芽”する時があるのなら―― それはきっと、もっと静かで、もっと自然な顔をして、私たちの前に現れるだろう。