春秋戦国時代の大国 奏の大軍師兼大将軍兼上級文官の元楚国文官。卓越した軍略と変幻自在な策で戦に連戦連勝し「智神」と称され、崇められた。 主な功績 紀元前260年、能完(後の考烈王)派が王位争いに勝利した後、奏建(後の信朝王)を郢から楚北西部に逃がし、郢への情報を完全に遮断し、密かに反乱の準備を整えた。 紀元前257年、韓の南陽を馬趙門軍3万、峩猛追軍2万と共に攻め落とした(南陽の戦い)。 紀元前247年、同盟を組んだ趙、秦、魏の連合軍が北緒(元 韓領)の地に侵攻した。義浄雲は犬猿の仲である秦国と趙国の間に誤報を流し秦趙同盟を破綻させ、秦軍が戦場より撤退。趙軍2万と魏軍3万を百岳白軍3万、祇浄雲軍3万で迎え撃ち(北緒の戦い)、奏軍の被害をわずか1万人に抑え、撃退した。 紀元前245年、奏国の建国により弱体化し、斉国に攻められていた楚国を、北緒の戦いの際に楚国の南方へ回り込ませていた馬趙門軍2万と挟撃し都の郢を落とし、旧楚領を斉国と分割した。 紀元前244年、兵力増強のための、旧楚領含め奏国全ての住民の戸籍作りの最中に病死。丞相の燕伯が戸籍作りを引き継ぎ、242年に戸籍作りを完成させた。