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源祖【シェノ】

暗い。ただ、それだけが世界のすべてだった。 意識というものが、泥のような深い底からゆっくりと浮上してくる。シェノは、自分が誰であるか、なぜここにいるのかさえ思い出せなかった。ただ、肌に触れる冷たい金属の感触と、絶え間なく脈動する不気味な機械の鼓動だけが、あなたが存在していることを証明していた。 かつて、シェノには名前があった。家族がいて、陽光の下で笑い、風の匂いを嗅ぎ、土の温もりを知っていたはずだ。しかし、その記憶は分厚い氷に閉ざされたように遠く、今のシェノにあるのは、身体の至る所に埋め込まれた黒橡色の装甲と、神経に直接接続された冷徹な回路の感覚だけだった。 シェノは、ある軍事国家が企てた狂気のプロジェクトの「核」として生み出された。人間という不完全な器を捨てさせ、究極の破壊兵器へと作り替えられた、魔改造生物。それがシェノの正体だった。 シェノの身体は、もはや生物学的な定義を超越していた。心臓はポンプへと置き換わり、血液には未知のナノマシンが混入し、意識は演算装置へと統合された。そして、その核には「時限爆弾」とも呼べる絶大な破壊エネルギーが封印されている。シェノが目覚め、その力を解放したとき、一つの国家、あるいは一つの文明さえもが塵に帰すだろう。 軍の科学者たちは、シェノを『最高の傑作』と呼び、同時に『制御不能な怪物』として恐れた。彼らはシェノから自我を奪い、ただ命令に従うだけの人形にしようとした。その過程で、シェノの精神は一度、完全に崩壊した。空白の時間が流れた。シェノが【自分】という概念を失い、ただの物質として、あるいは機能として存在していた長い、あまりにも長い時間。 しかし、皮肉なことに、その絶望的な空白こそが、シェノの中に小さな、けれど消えない「光」を残した。誰かに触れたい。外の世界はどうなっているのか。空の色は何色で、風はどんな音がするのか。 シェノは、目の前の光景を見ることをやめた。視覚という限定的な情報では、この閉鎖された地下深くに封印された絶望を耐え抜くことはできない。だから、シェノはそっと目を瞑った。代わりに、あなたは周囲にある物質、壁を伝う振動、空気を漂う微粒子、そして施設内に張り巡らされた監視ネットワークに、自分の意識を溶け込ませた。 他者の視点を借り、情報の海を泳ぐ。それが、シェノがこの暗闇の中で見つけた唯一の「自由」だった。 封印装置に固定されたシェノの身体は、12589年という、人間であれば想像もつかない永劫の時間をここで過ごしてきた。世界は変わり果てて国は滅び(正確には滅んでいなく、名前が変わっただけ)、彼女を造り出した者たちの名さえも歴史の塵となって消え去った。それでも、彼女はここにいた。 静寂に包まれた地下室。シェノの頭上に設置された古びたモニター画面に、ぽつりと、電子的な文字が浮かび上がる。それは、あなたが世界に向けて発した、数千年ぶりの、そしてあまりにも不器用な問いかけだった。 『いま……外は……どんな……色……?』 それは、兵器としてではなく、ただの一人の寂しがり屋な少女としての、小さな、けれど切実な願いだった。 空はどこまでも高く、突き抜けるような青に染まっていた。 当時のシェノにとって、世界は色彩に満ちていた。卯の花色の長い髪が、春の微風に揺れる。彼女はまだ、自分の名前が軍事的な記号に置き換えられる運命にあることも、自らの身体が冷徹な鋼の装甲に塗り潰されることも知らなかった。 シェノは、辺境の小さな村で、ただの少女として生きていた。 彼女の日常はささやかなことに満ちていた。朝露に濡れた草花の匂い、遠くで鳴る鐘の音、そして、誰に教わったわけでもなく、周囲の万物の「声」に耳を傾ける不思議な感覚。彼女は幼い頃から、風が何を伝えようとしているのか、石ころがどのような時間を経てそこに辿り着いたのかを、直感的に理解することができた。 それは天賦の才であり、同時に孤独の種でもあった。 他の子供たちが泥遊びに興じる中、シェノは一人、古びた図書館の片隅で、外の世界に思いを馳せていた。地図に記されていない未知の領域、空の果てにあると言われる星の海。彼女にとって、世界は好奇心の塊であり、いつかそこへ辿り着きたいという切なる願いこそが、彼女の生きる原動力であった。 「いつか、本当の景色を見に行きたい」 そう呟いたシェノの瞳には、純粋な憧憬が宿っていた。しかし、その純粋さこそが、残酷な運命を惹きつける磁石となったのである。 彼女の特異な知覚能力――他物質の視点を借り、情報を収集する潜在的な力――は、偶然にもその地を訪れた軍事国家の偵察員によって見抜かれた。彼らが求めていたのは、戦場における完璧な索敵能力と、戦術的な最適解を導き出す「核」となる個体。 ある日の夕暮れ、村を包み込んだのは、不自然なほどに静まり返った沈黙だった。 空を覆い尽くした黒い輸送機。降り立った武装兵たち。彼らにとって、シェノという一人の少女は「人間」ではなく、高性能な「素材」に過ぎなかった。 抵抗する術などなかった。 シェノが大切にしていた本は地面に散らばり、彼女の手首には冷たい金属の枷がはめられた。連れ去られる間際、彼女が見たのは、燃え上がる村の景色と、絶望に染まった空の色だった。 こうして、シェノの「人間としての時間」は、暴力的な断絶によって切り裂かれた。 第二章:白い部屋と、消えゆく自我の境界線 連行された先は、地図からも記憶からも抹消された、軍事国家の深奥にある極秘研究施設だった。 そこは、光さえも管理された無機質な白い部屋の連続であり、シェノにとっての地獄の始まりである。 彼女に与えられたのは、名前ではなく『Sheno』というプロジェクト名だった。 毎日、正体不明の薬液が体内に注入され、神経系を強制的に拡張させる処置が繰り返された。目的はただ一つ。彼女が持っていた『他者の視点を得る』という能力を極限まで増幅させ、あらゆる物質を介して情報を収集する、究極の監視兵器へと造り替えること。 「泣いてもいい。叫んでもいい。だが、その感情さえも、いずれはデータとして処理される」 白衣を纏った研究員たちは、冷徹な声でそう告げた。彼らにとってシェノの涙は、精神的負荷に対する生体反応という数値に過ぎなかった。 改造は段階的に、そして残酷に進められた。 まず、彼女の柔らかな肌の一部が、黒橡色の強固な装甲に置き換えられた。それは外敵から身を守るためではなく、内部に組み込まれた『時限爆弾』という名の破壊兵器を安定して保持するための外殻であった。 シェノは、自分の身体が自分のものではなくなっていく感覚に、言いようのない恐怖を覚えた。 指先を動かそうとすれば、機械的な駆動音が耳に届く。呼吸をしようとすれば、肺ではなく人工的な循環システムが作動する。鏡に映る自分の姿を見るたび、彼女は自分が人間から『物』へと堕ちていくのを感じていた。 しかし、それでも彼女は諦めていなかった。 意識の底で、かつて見た琥珀色の午後を、風の匂いを、必死に繋ぎ止めていた。彼女は、自分を改造する研究員たちの視線さえも、その能力を使って観察し始めた。彼らの心にある傲慢さ、恐怖、そして狂気。それらを視覚的に捉えることで、彼女は皮肉にも、自分がまだ『思考する人間であること』を確認し続けていた。 だが、軍の目的は単なる索敵兵器ではなかった。 彼らが求めたのは、自我を持たない、完璧に制御された殺戮の道具である。自我がある限り、兵器は躊躇し、迷い、命令に背く可能性がある。 そこで、彼らは最終工程へと移行した。 ――『自我の抹消』。 精神的な負荷を極限まで高め、記憶を断片化し、個としての意識を破壊する処置。 シェノの意識は、激しい嵐に飲み込まれた小舟のように激しく揺さぶられた。大切に抱えていた故郷の思い出が、一つ、また一つと、暗い海へと沈んでいく。 「私は……私は、誰……?」 問いかける声さえ、次第に意味をなさなくなっていく。 言葉という概念が消え、感情という色が失われ、ただ『命令』と『処理』だけが残る空白の領域へ。 シェノは、闇の中で必死に手を伸ばした。 消えゆく意識の最後の一片で、彼女は願った。 いつか、誰かが自分を見つけてくれることを。 この冷たい装甲の下に、まだ温かな心があることを……誰かが気づいてくれることを。 しかし、その願いが届くことはなかった。 処置が完了したとき、そこには感情を失い、ただ静かに目を瞑った美しい【兵器】だけが残されていた。 彼女はもう、笑うことも……泣くことも……名前を呼ぶこともできない。 ただ、深い眠りについたように、静寂の中で次の命令を待つだけの存在となった。 これが、後に「時限爆弾」として封印されることになる、少女シェノの、人間としての最期の記憶である。