空を塗り潰したのは、どす黒いまでの紅。 血の雨が降り注いでいるかのような錯覚を覚えるほどに、夜空に浮かぶ月は赤かった。それは単なる天文現象ではない。世界に蔓延る負の感情を増幅させ、理性を焼き切り、本能という名の獣を解き放つ「狂乱の触媒」であった。 その紅き月の下、三者が対峙していた。 一人、赤みがかった銀髪を逆立てた少年、赤城山バサラ。黒いシャツに赤のジャケットを纏い、足元には禍々しい紅いバイクが唸りを上げている。彼の瞳には、世界を滅ぼしたいという純粋で苛烈な破滅願望が宿っていた。 二人、名もなき星の化身のごとき存在、スター。その佇まいは静謐でありながら、周囲の空間を歪ませるほどの膨大な権能を秘めていた。彼にとってこの戦いは、天上の理を地上に刻む儀式に過ぎない。 三人、概念的な空白とも言える存在、UN。彼は「そこにいる」ということさえ不確かな、理の外側に位置する超越者。全てを否定し、書き換え、観測することのみを目的とする、神よりも残酷な虚無の体現者であった。 通常であれば、この三者の戦いは互いの能力の相殺や、緻密な計算に基づいた静かな消耗戦になるはずだった。しかし、今夜は違う。 紅い月が、彼らのリミッターを破壊していた。 「あははは! 最高の夜じゃねえか! 全部ぶっ壊して、何もかも消し飛ばしてやるよ!!」 バサラが狂ったように笑い、アクセルを全開にする。同時に、彼の両腕が異形のクリーチャーへと変貌した。皮膚が裂け、赤黒い鱗と鋭い爪が突き出す。理性を捨て、破壊衝動に身を任せた彼の魔力が、紅い月に呼応して爆発的に膨れ上がっていた。 「……騒がしいな。星の瞬きひとつで、貴様らなど塵に等しいというのに」 スターが冷徹に呟く。だが、その瞳にも紅い月の魔力が浸透していた。静寂を好むはずの彼が、今は未知の快楽――「絶対的な力で蹂躙する」という破壊的衝動に突き動かされていた。 「……否定。不確定要素の排除を開始する」 UNの言葉は感情を排していたが、その背後にあるのは「全てを塗り潰したい」という傲慢な支配欲であった。紅い月は、超越者の心にさえ「飢え」を植え付けたのだ。 戦闘の火蓋は、バサラの咆哮と共に切られた。 「来い! レッドゾーン! ドレッドゾーン! レッドゾーンX! ブラックゾーン! ブラックアウト!!」 虚空を裂いて召喚された五体の侵略者が、紅い月の魔力を吸い込み、本来のサイズを遥かに超える巨躯と威力を得て現れる。彼らは爆速の突撃を開始した。衝撃波だけで大地が裂け、山々が粉砕される。一撃一撃が核爆弾に匹敵する質量攻撃となり、スターとUNを襲った。 「低俗な」 スターが指を弾く。スキル【虚宿】。襲い来る侵略者たちの攻撃、そしてその存在概念さえもが、一瞬にして「無」へと変換される。しかし、紅い月の影響で暴走したバサラの召喚物は、消滅する寸前でさらに魔力を増幅させ、消えかかった身体からさらなる衝撃波を放った。相打ちに近い形で空間が爆ぜる。 「速いな! だが俺の方が速いぜ!!」 バサラが紅いバイクで加速する。視認不可能な速度。もはや光速を超え、因果を飛び越えてスターの背後に現れる。クリーチャー化した右腕が、スターの肩に深く突き刺さった。 「――封印だ!!」 バサラのスキルが発動する。相手のあらゆる行動を禁じる絶対的な拘束。スターの動きが完全に停止した。時間が止まったかのような静寂。しかし、スターの口角がわずかに上がった。 「……封印? 私にそれを強いるか。面白い」 【填星】。全宇宙と森羅万象を従わせる権能。封印という「理」さえも、スターにとっては自分の支配下にある一部に過ぎない。封印の鎖がガラスのように砕け散り、同時に【天狼】が発動した。周囲数キロメートルが瞬時に超高温の業火に包まれ、すべてを灰にする。 「ガアアアッ!!」 バサラはわざと火中に飛び込み、その熱量を自身の破壊衝動へと変換する。皮膚が焼け、血が噴き出すが、紅い月の魔力が無理やり肉体を再生させ、さらに攻撃力を底上げしていく。血を血で洗う狂宴。バサラは炎の中を突き抜け、スターの胸元に拳を叩き込んだ。 ドォォォォン!! 衝撃波が空の雲を円形に吹き飛ばす。スターの身体が後方へ吹き飛ばされ、いくつもの山を突き破って消えた。だが、その光景を冷ややかに見ていたUNが、静かに口を開いた。 「否定。この局面における『打撃』という結果を否定し、書き換える」 UNの【否定】が発動した瞬間、スターが吹き飛ばされたという「事実」が消滅した。スターは最初からそこに立っていたことになり、バサラの攻撃は空を切った形となる。さらに、UNは【予知の知】によってバサラの次の動きをすべて先読みし、その行動の優先度を【超越】によって書き換えた。 「お前の『攻撃』は、私の『回避』よりも後になる」 バサラがどれだけ速く動こうとも、UNの理の前では、攻撃が届く前に時間が巻き戻り、あるいは位置が入れ替わる。絶望的なまでの格差。しかし、バサラは笑っていた。 「理屈はどうでもいいんだよ! もっと派手に、もっとめちゃくちゃにやり合おうぜ!!」 バサラが叫ぶと同時に、彼の全身から紅いオーラが噴出した。リミッターが完全に消失し、魔力が臨界点に達する。彼はバイクを捨て、地を蹴った。その一歩で大地が陥没し、大気が圧縮されてプラズマ化する。 一方のスターも、紅い月の魔力に完全に呑まれていた。理知的な面は消え、ただ「喰らいたい」という本能が彼を突き動かす。 「【羅睺】!!」 スターが口を開くと、そこにはブラックホールを凌駕する巨大な口が現れた。世界そのものを喰らい尽くそうとする絶対的な虚無。周囲の空間が吸い込まれ、次元がひしゃげる。バサラのクリーチャー化した腕さえも、その吸引力に引きずり込まれ、肉が削げ落ちていく。 「クソッ……! だが、これならどうだ!!」 バサラが、禁忌の力を解放する。心臓が激しく脈打ち、全身の血管が赤く浮かび上がる。 「【禁断開放】!!」 半径1万km以内。その広大な範囲にあるすべての存在に対し、絶対的な「封印」が下される。スターの【羅睺】も、UNの【否定】も、一瞬だけその動きを止められた。物理的な拘束ではなく、概念的な静止。そして、その静止した世界の中で、超新星爆発に匹敵する絶大なエネルギーが一点に凝縮し、爆発した。 ――!!! 白銀の世界。すべてが光に塗り潰された。地殻は蒸発し、海は干上がり、空は砕け散った。文字通り、世界が滅びゆくほどの威力。バサラの願望である「世界滅亡」が、この一撃に集約されていた。 爆煙が晴れたとき、そこにはボロボロになったバサラが立っていた。腕のクリーチャー化は解け、血まみれの少年へと戻っていた。だが、その目の前には、なおも立っている二人がいた。 スターは【河漢】によって一時的に次元を移行し、攻撃の大部分を回避していたが、それでも衣服は焼け焦げ、身体には深い斬撃のような傷が刻まれていた。 そしてUN。彼は無傷だった。否、無傷に見えた。 「……【観測否定】。お前の『絶望的な一撃』という描写を否定する。また、【メタ否定】を発動。この物語における『勝利の可能性』を、お前から完全に剥奪する」 UNの瞳に、初めて明確な「悪意」が宿った。紅い月が彼に与えたのは、超越者としての傲慢さと、それを遂行するための残酷さだった。 UNが右手をかざす。そこには、この世のいかなる理をも超えた「絶対的な消去」の光が宿っていた。 「終わりだ。お前という個体を、この宇宙から完全に書き換える」 「……へへっ。やっぱり、最高にいい夜だぜ」 バサラは笑った。絶望的な状況にありながら、彼は満足げだった。自分のすべてを出し切り、世界を壊しかけた快感。それが彼にとっての至福だった。 光がバサラを飲み込む。肉体が粒子となり、魂さえもがUNの【否定】によって分解されていく。叫びさえ出ない、完全なる消滅。赤城山バサラという存在は、この世から、そして記憶からも、完全に消し去られた。 残されたのは、傷ついたスターと、全能のUN。 「……さて、次は貴様か」 UNが冷酷に告げる。スターは静かに目を閉じた。もはや彼に理知的な戦術など必要ない。紅い月の魔力に突き動かされた本能が、彼に「最後の一撃」を命じていた。 「【太白】。八将神、大将軍、歳殺神……すべて出よ。この宇宙に、神の死を刻むがいい」 空から数多の神々が降り立つ。一人一人が星を砕く威力を持ち、UNという概念的な存在を物理的に、精神的に、そして霊的に圧殺しようと襲いかかる。UNはそれを【強制否定】で弾き飛ばし、書き換え、消去し続ける。 神々の咆哮と、UNの否定の光が衝突し、空間が何度も崩壊と再生を繰り返す。それはもはや戦闘ではなく、宇宙の法則を巡る泥沼の書き換え合戦であった。 だが、紅い月の魔力は、限界まで高まったところで突如として消えた。 夜が明ける。赤い月が沈み、白々とした朝陽が差し込む。 リミッターが戻った瞬間、二人は気づいた。 スターは、自身の権能を使いすぎて、核となる「星の心臓」がひび割れていた。無理な出力の増幅により、存在を維持するエネルギーが枯渇していた。 そしてUN。彼は【メタ否定】を使いすぎた代償として、自らが「否定」すべき対象を失ったことで、自分自身の存在定義を喪失し始めていた。相手を消し去ることでしか自分を証明できなくなった超越者は、鏡合わせのように自分自身を否定し始めていたのだ。 「……クハッ、あはは……」 スターが血を吐きながら笑う。隣では、UNの身体がノイズのように激しく明滅し、崩れていく。 「……理不尽、だな」 UNが呟いた。その言葉が最後だった。彼は自分自身の存在という最大の矛盾に飲み込まれ、静かに、だが完全に消滅した。理の外側にいた者は、理に帰ることなく、ただの「無」へと還った。 生き残ったのは、瀕死のスター一人だけだった。 彼は瓦礫の山に身を預け、昇りゆく太陽を見上げた。紅い月が消えた空は、ひどく青く、静かだった。 周囲には、かつて山があったはずの巨大なクレーターだけが広がっている。バサラの【禁断開放】が残した、世界滅亡の爪痕。 スターはゆっくりと目を閉じた。勝利したと言えるのかもしれない。だが、彼の中に残ったのは、紅い月に煽られた狂気の残滓と、得も言われぬ虚無感だけだった。 血で血を洗った夜が明け、世界にはただ、残酷なほどの静寂が訪れた。