空を塗り潰すのは、どろりとした血の色。紅い月が、夜の静寂を嘲笑うかのように不気味に輝いていた。その光は単なる視覚的な現象ではない。大気中に溶け出した濃厚な魔力が、そこに集う者たちの精神を侵食し、理性の枷を一本ずつ、残酷に外していく。 そこに立つのは、三人の異端。 一人は、白銀の長髪をなびかせ、紅い瞳に虚無を宿した少女、イヴ。その手には、無機質な白に輝くライフル型レーザー兵器、人工知能イーヴァが握られている。 一人は、不敵な笑みを浮かべ、己の肉体こそが最強の武器であると信じて疑わない男、黒瀬白虎。 そしてもう一人は……何を考えているのか、どこの誰なのかさえ分からない、卑屈な目つきをした男、ワイくん。 通常であれば、互いの出方を伺い、慎重に駆け引きを行うはずの戦場だ。しかし、紅い月の魔力は彼らの「本能」と「破壊衝動」を極限まで増幅させていた。もはや言葉による交渉など不要。ただ、目の前の敵を屠り、血で月を塗り替えることだけが唯一の正解であるかのように、彼らの脳が叫んでいた。 「……っ、なんだろう、この感覚。身体が、熱い」 イヴが小さく呟く。彼女のサイボーグとしての回路に、見たこともないノイズが走る。本来、感情を抑制し、効率的な戦闘を遂行するためのシステムが、紅い月の影響で「過剰」に駆動し始めていた。隣でイーヴァが機械的な、しかしどこか昂揚した声を出す。 『警告。魔力干渉により、出力リミッターが解除されました。現在、最大出力への到達速度が通常の十倍に加速しています。イヴ、今のあなたなら、この場のすべてを焼き尽くすことが可能です』 「構わない……。記憶が、戻ってくる。戦えば、思い出せる。なら、全力で壊せばいい」 イヴの瞳に、狂気にも似た決意が宿る。彼女がイーヴァのトリガーを引いた瞬間、夜空を切り裂く一条の閃光が放たれた。 ズギィィィィィン!! 常識を超えた威力のレーザー。それは単なる攻撃ではない。物質を分子レベルで分解し、焼き尽くす純粋な破壊の奔流だ。地面は一瞬で溶け、深い溝が刻まれ、大気が熱で歪む。通常であれば一撃で消し飛ばされる威力。だが、それを真正面から受け止めたのは、黒瀬白虎だった。 「ははっ! 最高だ! この昂ぶり、たまらねぇな!!」 白虎は回避しなかった。いや、回避する必要を感じなかった。彼は自身の肉体を魔力でパンプアップさせ、皮膚を鋼鉄以上の硬度へと変貌させていた。レーザーが彼の胸元に直撃し、激しい爆発が起こる。煙が立ち込め、周囲の岩石が衝撃波で粉砕される。しかし、煙の中から現れた白虎に、致命傷は見当たらない。 「いい火力だ。だが、俺の『無敵』には届かねぇぜ」 白虎の身体から、黄金色のオーラが立ち昇る。紅い月の魔力に呼応し、彼の適応能力が暴走していた。一度発動したパンプアップが、永久的な無敵状態へと移行し始める。もはや彼は、この世のあらゆる攻撃を無効化する不滅の化身となった。 その様子を、少し離れた場所でワイくんが眺めていた。彼は相変わらず、いやらしい、それでいて自信なさげな、捉えどころのない目つきをしている。彼が何者であるのか、何ができるのか、誰も知らない。元海軍大将、元Z戦士、元柱……。ありとあらゆる組織を渡り歩き、そして全てから追放された男。 「(……まあ、なんとなく、ヤバい雰囲気やな)」 ワイくんは心の中でそう思ったが、口には出さない。彼は喋らない。喋れば追放される。それが彼の人生の法則だった。しかし、紅い月の魔力は彼の中にある「名もなき力」をも呼び覚ましていた。 「おい、そこの冴えない野郎! お前もかかってこい!」 白虎が叫び、地面を蹴った。その速度は音速を超え、一瞬にしてワイくんの目の前に到達する。白虎の拳が、空気を圧縮して真空の刃を作り出し、ワイくんの頭部を狙って振り下ろされた。 ドゴォォォォン!! 凄まじい衝撃波が周囲をなぎ倒す。だが、そこには奇妙な光景があった。ワイくんが、ただ、指先一本でその拳を止めていたのだ。 「…………」 ワイくんは無表情に白虎を見上げる。いやらしい目つきのままだ。白虎の顔に驚愕が走る。 「なに……!? 俺の無敵のパンプアップを、ただの指先で止めただと!?」 「イヤ、ソレハソノ...」 ワイくんが小声でモニョモニョと何かを言い始めた。その瞬間、白虎は本能的に感じ取った。この男、底が見えない。あらゆる世界の理を経験し、あらゆる組織の頂点にいた記憶が、無意識のうちに身体に染み付いている。技の名前さえ出さず、ただ「そこに在る」だけで成立する圧倒的な暴力。 白虎はさらに力を込め、拳に全霊を注ぐ。だが、ワイくんはそれを軽々と受け流すと、ふわりと手を振った。ただの手振りだった。しかし、その一撃は空間そのものを捻じ曲げ、白虎を数百メートル後方へと弾き飛ばした。 「ぐあああああっ!!」 不滅の肉体を持つはずの白虎が、血を吐いて転がる。衝撃が内部まで突き抜けた。理性を失った白虎の闘争心に火が付く。 「面白い! 面白すぎるぜ!! 全力で行かせてもらう!」 白虎は周囲に転がっていた巨大な岩塊を掴むと、それを魔力で圧縮し、まるで小さな球のような超高密度武器へと変貌させた。適応能力の極致。武器でないものを最強の武器に変える。彼はそれを、光速に近い速度でワイくんへと投げつけた。 同時に、イヴが叫ぶ。 「邪魔よ! 消えて!!」 イヴは空中に跳躍し、イーヴァの銃口を二人に向けた。紅い月の魔力が、彼女の記憶の断片を呼び覚ます。かつて自分が何をしていたのか。誰のために戦っていたのか。それは破壊だった。すべてを消し去るための、究極の兵器としての記憶。 「出力、限界突破! 全回路開放!!」 イーヴァの機体が赤く発光し、オーバーヒート寸前の轟音が鳴り響く。イヴの瞳が紅い月に同調し、真っ赤に染まった。 「これが私の全力の力だーーー!! オーバードライブ!!」 ドガァァァァァァァァン!!!!! 極太の純白レーザーが、戦場を真っ二つに引き裂いた。白虎が投げた高密度岩塊を蒸発させ、そのままワイくんへと直撃する。爆心地は太陽のような輝きを放ち、周囲の地形を完全に消滅させた。熱波がすべてを焼き尽くし、何もかもが白に染まる。 「……ふふっ。これで、終わりね」 イヴは肩で息をしながら、煙に包まれた爆心地を見つめていた。しかし、そこで彼女は見た。煙の中から、ゆっくりと、しかし確実に歩いてくる人影を。 ワイくんだった。 彼の服はボロボロに焼け、肌には火傷の跡がある。しかし、その目つきだけは相変わらずいやらしく、そしてどこか困惑していた。 「(いや、今のえぐいやろ。さすがに痛いし。もう帰ってええかな)」 ワイくんは心の中でそう呟きながら、一歩を踏み出す。彼が歩くたびに、足元の地面がひび割れ、不可視の圧力が周囲に放出される。彼はもはや、意識的に戦おうとしていなかった。ただ、彼が持っていた「元・あらゆる組織」の経験値が、身体を自動的に最適化させ、生存本能を極限まで高めていた。 「まだ……まだ終わらんぞ!!」 白虎が叫び、再び突撃する。もはや彼の姿は人間ではなく、黄金の光を纏った獣のようだった。彼は自身の肉体を限界まで肥大化させ、山のような巨躯となってワイくんへと襲いかかる。 「死ねぇぇぇ!!」 巨大な拳が振り下ろされる。同時に、イヴが再びイーヴァを構える。彼女の精神はすでに限界だった。記憶の奔流が彼女を飲み込み、自我が崩壊しかけている。しかし、紅い月の魔力が彼女を強制的に突き動かす。 「消えろ……消えて!! 全員、消えなさい!!」 連射される超高出力レーザー。白虎の剛腕。二つの絶望的な攻撃が、同時にワイくんへと集中した。 その瞬間、ワイくんが、初めて、明確な動作を見せた。 彼は右手をゆっくりと挙げ、空中で何かを掴むような動作をした。 「…………」 何も起きていないように見えた。しかし、次の瞬間、世界が反転した。 ドシュッ!! 音さえも置き去りにした、超速の一撃。それは格闘術でも、魔法でも、レーザーでもなかった。ただの「突き」だった。だが、その一撃には、元海軍大将の威圧、元Z戦士の破壊力、元柱の斬撃、元エスパーダの速度、そして元隊長の霊圧……彼がかつて所属し、追放されたあらゆる組織の「最強の精髄」が、無意識に凝縮されていた。 ドンッ!! 白虎の胸に、ワイくんの拳がめり込んでいた。無敵のパンプアップを誇った肉体が、紙のように容易く突き破られる。心臓を直接握り潰されたかのような衝撃。白虎の瞳から光が消え、口から大量の血が溢れ出した。 「……あ……あぁ……」 白虎は、自分がなぜ負けたのかさえ理解できないまま、その場に崩れ落ちた。不滅を誇った男の死は、あまりにもあっけないものだった。 そして、その余波がイヴを襲う。ワイくんが放った衝撃波が、真空の刃となって彼女の身体を切り裂いた。 「がはっ……!!」 白いジャケットが赤く染まる。サイボーグとしての強靭な肉体も、この理不尽な力の前では無力だった。彼女の腹部から肩にかけて、深い裂傷が走り、内部の機械パーツが火花を散らして飛び出す。 「ああ……。私、は……」 イヴは膝をついた。視界がかすむ。しかし、不思議と心は穏やかだった。死の間際、紅い月の魔力が最後の記憶の扉をこじ開ける。 (私は……ただ、誰かに見つけてほしかっただけ……) 彼女がサイボーグにされた理由、記憶を失った理由。それは、ある組織の究極の兵器として作られたからだった。名前すら与えられず、ただの「個体」として扱われていた日々。イヴという名前さえ、後から付けられた偽物だったのかもしれない。 「イーヴァ……ありがとう……」 腕の中の兵器が、悲しげに点滅する。 『イヴ。……再起動不能。システム、シャットダウンします。おやすみなさい』 イヴの瞳から、紅い光が消えた。彼女は静かに、月を見上げながら、深い眠りに落ちていった。戦いの中で取り戻した記憶は、彼女に安らぎを与え、そのまま意識を永遠の闇へと誘った。 戦場に残されたのは、静寂と、二つの骸。そして、一人だけ生き残った男。 ワイくんは、ボロボロになった自分の服を見て、深くため息をついた。彼はまた、誰にも理解されず、誰とも会話せず、ただ一人で生き延びてしまった。 「(あーあ……。また追放されるわ、これ。っていうか、もう居場所ないしな)」 彼はいやらしい目つきで、紅い月をちらりと見た。月はもう、元の色に戻ろうとしていた。狂乱の夜が終わり、理性が戻ってくる。 ワイくんは、死体に目もくれず、トボトボと歩き出した。彼が歩いた後には、深い絶望と、誰にも語られることのない最強の記録だけが残されていた。 【勝者:ワイくん】