静寂が支配する、境界なき白銀の空間。空も地も判別できぬその場所で、二人の女が対峙していた。 一人は、黒い長髪を夜風のようになびかせた和服の女性、蜻蛉。整った顔立ちに浮かぶのは、淑女としての気品と、それとは相反する底知れない狂気を孕んだ不敵な笑みである。彼女の傍らには、身の丈ほどもある、血のように赤い大太刀が静かに、しかし不気味な殺気を放って横たわっていた。 もう一人は、白銀の髪を光らせる伝説の英雄、『空の座』星影 空。その瞳には強者との邂逅に対する純粋な渇望が宿っている。彼女の手には、運命さえも断ち切ると謳われる名刀【妖姫】が握られていた。 「貴方のような、歴史に名を刻む御方と戦える事。心より感謝致しますわ」 蜻蛉は深く、優雅に頭を下げた。しかし、その口端は吊り上がり、瞳の奥ではどす黒い歓喜が渦巻いている。対する星影 空は、不敵に口角を上げた。 「礼など不要だ。お前の放つ血の匂い、そしてその飢えた魂。最高に心地よい。さあ、私の剣がどこまで届くか、その身で確かえ」 言葉が終わるか終わらぬか、静寂は爆ぜた。 蜻蛉が、その真っ赤な大太刀を握りしめた瞬間、周囲の空間がひどく歪んだ。彼女が発動したのは呪力スキル【猛進ノ虫】。それは肉体の限界を、論理的な時間を、そして物理的な音さえも置き去りにする超加速。 (――速い!) 星影 空がそう意識した瞬間、世界から色が消えた。蜻蛉の姿が掻き消え、ただ赤い閃光だけが空間を斜めに切り裂いた。真空の刃が空気を引き裂き、凄まじい衝撃波が後方まで突き抜ける。しかし、星影 空は【妖姫】をわずかに傾け、最小限の動作でその一撃を弾いた。 ガキィィィン!! 火花が激しく散り、衝撃波で白銀の地面に巨大な亀裂が走る。蜻蛉は空中で身を翻し、着地と同時に再び加速。今度は円を描くような軌道から、大太刀を縦に振り下ろした。30kgを超える重量の刃が、加速による慣性と相まって、惑星をも砕きかねない質量攻撃へと変貌する。 「あはははは! いい、いいですわね! この心地よい抵抗感!」 蜻蛉の笑い声が、狂気となって戦場に響く。彼女はもはや淑女の仮面を脱ぎ捨て、純粋な戦闘狂として、血に飢えた獣のように笑いながら斬撃を繰り出した。一秒間に数百回、あるいは数千回。目に見えぬ速度で繰り出される真っ赤な刃の嵐が、星影 空を包囲する。 だが、星影 空は動じない。彼女は静かに宝具【妖姫の宝塔】を展開した。 シュン、と空気が震え、彼女の傍らに全く同じ姿をした「分身体」が現れる。本尊と分身体。世界最高峰の剣技を持つ二人が、完璧なシンクロ率で【妖姫】を振るった。 キィィィン! ガキン! シャァァッ!! 分身体との連携による死角なき防御陣。蜻蛉の超高速斬撃は、完璧なタイミングで繰り出される二本の刀によって次々と相殺されていく。互いの刃がぶつかり合うたびに、空間がガラスのようにひび割れ、火花が豪雨のように降り注いだ。 「素晴らしい速度だ。だが、剣としての『理』が足りないな」 星影 空が冷徹に言い放つ。彼女は分身体と共に、攻勢に転じた。一人が上から、もう一人が下から。挟撃の斬撃が、蜻蛉の逃げ場を奪う。妖姫の刃が空間を断ち切り、黒い斬撃の線が蜻蛉の和服の肩を裂いた。 「ふふ……あははははは!!」 血が流れた。しかし、蜻蛉の表情は歓喜に満ちていた。身体能力を底上げする【猛進ノ虫】の反動で、筋肉は悲鳴を上げ、内臓は激しい負荷で血を吐き出している。だが、彼女にとってそれは至上の快楽であった。死の予感が近づくほどに、彼女の闘志は真っ赤に、激しく燃え上がる。 (ああ、心地よい……。体が壊れていく、魂が擦り切れていく。この感覚こそが、私が求めていたもの!) 蜻蛉の瞳から理性が消え、代わりにどす黒い殺意と悦楽が満ちた。彼女は覚悟を決めた。もはや、後戻りはできない。最期の輝きを、この最強の剣士にぶつけるために。 「【人呑み】……!!」 絶叫と共に、蜻蛉の全身から禍々しい紫黒色のオーラが噴出した。それは自らの魂を燃料として燃やす禁忌の技。彼女の肌は青白く変わり、髪は激しく逆立ち、その周囲の空間は呪力の圧力だけで押し潰され、黒い穴が空いたかのように歪み始めた。 生物を超越した、神域の速度。もはや「速い」という概念さえ意味をなさない。蜻蛉が動いた瞬間、世界は静止した。星影 空の視覚、聴覚、そして直感さえも、彼女の動きを捉えられない。 ドォォォォォン!! 一撃。たった一撃が、星影 空の脇腹を深く切り裂いた。血飛沫が舞い、空は後方へと激しく吹き飛ばされる。しかし、蜻蛉は止まらない。魂を燃やした加速により、彼女は光の粒となって星影 空の周囲を旋回し、あらゆる角度から絶望的な斬撃を叩き込んだ。 ズバァッ! ドシュッ! ガキィィィン!! 大太刀が空気を切り裂くたびに、真空の刃が空間を断裂させ、白い世界に赤い筋が幾筋も刻まれる。星影 空は分身体と共に必死に防御を試みるが、魂を燃やした蜻蛉の威力は、もはや防御を貫通するレベルに達していた。 「あはははは! 見てください、見てください! 私の魂が、こんなにも美しく燃えているわ!!」 狂乱の舞い。血と呪力と歓喜が混ざり合った地獄のような光景。しかし、星影 空の瞳は死んでいなかった。激痛に顔を歪めながらも、彼女は静かに、深く息を吸い込んだ。 (……ここまでだ。お前の魂の輝き、確かに受け取った。だが、私の剣はまだ、頂に届いていない) 星影 空は、分身体と背中を合わせた。二人の【妖姫】が共鳴し、周囲の光をすべて吸い込み始める。空が暗くなり、白銀の世界が急速に塗り潰されていく。それは、天変地異の前触れ。太陽さえも屈服させる絶望の闇。 「これで終わりだ。【陽覆ウ月闇】(ようふくうげつあん)!!」 意識を極限まで集中させ、本尊と分身体が同時に、全身全霊の斬撃を放った。それは単なる物理的な攻撃ではない。空間そのものを闇に塗り潰し、存在するすべての理を断ち切る、終局の刃。 真っ黒な、巨大な斬撃の奔流が、波のように蜻蛉を飲み込んだ。 「あ……」 【人呑み】による超加速の最中であったが、その技の規模があまりに膨大すぎた。回避不能。抵抗不能。世界そのものが「斬られる」という結果に固定されたとき、蜻蛉の真っ赤な大太刀は、黒い闇に飲み込まれ、音もなく砕け散った。 ゴォォォォォッ!!!!! 爆発的な衝撃が走り、空間が真っ二つに割れた。黒い闇が晴れたとき、そこには膝をつき、肩で息をする星影 空と、静かに崩れ落ちる蜻蛉の姿があった。 蜻蛉の身体からは、もうオーラは消えていた。魂を燃やし尽くした代償。彼女の瞳からは光が消えかかっていたが、その口元には、これまでで最も満足げな、穏やかで不気味な笑みが浮かんでいた。 「……ふふ。素晴らしい……。本当に、最高の、お相手でしたわ……」 蜻蛉の身体が、光の粒子となってゆっくりと消えていく。彼女は最期まで、戦い抜いた充足感に浸っていた。 星影 空は、静かに刀を鞘に収めた。そして、消えていった戦友への敬意を込めて、深く一度だけ頭を下げた。 「さらばだ、狂った蝶よ。お前の速さ、忘れない」 静寂が戻った白銀の世界に、ただ一人の勝者だけが立ち尽くしていた。空の座に相応しい、孤独で気高い静寂と共に。