日差しの強い午後。チームAとチームBの拠点となっている休憩室には、心地よい静寂と、それとは相反する「緊張感」が漂っていた。 事の発端は、テーブルの上に置かれていた二つの小さなタッパー。中身はどちらも似たような「フルーツタルト」だったが、一つはミサキのもの、もう一つはナギサのものだった。しかし、極度の怠惰と、常に眠たげな意識の中で行動していたミサキにとって、目の前にある「食い物」が誰のものかなどという詳細な設定は、重要事項ではない。 ミサキは、ぼんやりとした表情のまま、隣にあったタッパーにフォークを突き立て、その甘いタルトを口に運んでいた。そして、最後の一口を飲み込んだとき、ふと気づいた。 (……あれ。俺のタルト、なんか味がおかしくなかったか? というか、これ、俺のじゃないな) その瞬間、背後から凍り付くような視線が突き刺さった。 「…………お姉ちゃん」 低い。低すぎる。普段のしっかり者としてのナギサの声ではなく、怒りが頂点に達して逆に静かになった時の声だ。ミサキがゆっくりと振り返ると、そこには眼鏡の奥の瞳を鋭く光らせたナギサが立っていた。 「あ、ナギサ。おはよ……あ、もう午後か」 「……私のタルト、食べたでしょう」 ナギサの手には、空っぽになったはずの(あるいは、一口だけ残った)自分のタッパーが握られていた。いや、正確にはミサキが食べた後の空の容器が、テーブルの上に虚しく鎮座していた。 「えーっと、まあ、そうなるのかな」 「『そうなるのかな』じゃありません!!」 ナギサの怒声が室内に響き渡る。ミサキは「うわぁ」と小さく声を漏らし、肩をすくめた。しかし、ナギサの追及はそこからだった。 「いいですか、お姉ちゃん。私は今日、バイトを三つ掛け持ちして、やっと手に入れた限定ショップの特製タルトを、大切に、本当に大切に、この休憩時間に食べようと楽しみにしていたんです。それを、あなたは……!」 「まあまあ、落ち着けよ。タルトなんてまた買えばいいじゃん。俺が後で……あー、お金あればな」 「反省してない!! とりあえず、そこに正座してください!!」 「えー……。正座とか、今の時代に古くないか?」 「いいから!!」 ナギサの気迫に押され、ミサキはしぶしぶ床に膝をつき、正座の姿勢を取った。青いジャージに身を包み、気だるげに視線を泳がせるミサキ。対して、白服に黒ズボンの正装で、腕を組んで見下ろすナギサ。その光景は、まるで厳格な教師と、不真面目な生徒のようだった。 「言い訳を聞きます。なぜ私のものを食べたんですか?」 ミサキは、ふっと視線を外し、天井を見た。そして、最大限の「飄々とした」トーンで話し始める。 「いやさ、視覚的なバグっていうか、UIの不具合みたいなもんでさ。目の前に『食い物』っていうオブジェクトが配置されてたから、自然とカーソルがそこに当たっちゃったっていうか。まあ、ゲーム的に言えば、オートターゲット機能が作動したってことだよ」 「ゲームの話を持ち出さないでください! これは現実です! 現実の食い物を食べたんですよ!」 「まあそうなんだけど。でもさ、考えてみてくれよ。俺たちは姉妹だろ? 血が繋がってるんだから、ナギサの好みの味は、俺の好みの味に近い。つまり、俺が食べたのは『俺が食べるべきだった味』の代替品だったわけで、結果的に宇宙の調和は保たれているっていう……」 「意味不明です!!」 ナギサの額に青筋が浮かぶ。しかし、ミサキは止まらない。彼女は「正座」という不自由な状況にありながら、その口だけは超一流のゲーマーとしての、あるいは「言い訳の達人」としての性能を発揮していた。 「それにさ、ナギサ。お前は真面目すぎるんだよ。たまにはこういう『想定外のイベント』を楽しむ余裕を持てよ。ほら、この状況を映画的に捉えてみろよ。『姉による不慮の食害事件』。タイトル的に面白いだろ? ナギサは映画好きだし、こういうドラマチックな展開、嫌いじゃないだろ?」 「……っ! そういう……そういう風に話を逸らして、責任を曖昧にするのがお姉ちゃんの悪い癖です! 今は映画の話をしてるんじゃなくて、私のタルトの話をしてるんです!」 ナギサは悔しそうに叫ぶ。彼女は本来、冷静で理知的だ。しかし、姉であるミサキの「適当さ」には、どうにも弱い。説教をしているはずなのに、いつの間にかミサキのペースに引き込まれ、自分の論理が揺らいでいる感覚に陥っていた。 (ダメだ、ここで根負けしてはいけない。私はしっかり者の妹なんだから……!) ナギサは再び眼鏡をクイと押し上げ、厳しい表情を作った。 「いいですか。ズルは許されません。お姉ちゃんはいつもそうやって、面倒なことから逃げて、適当な言い訳で乗り切ろうとする。でも、今回は許しませんよ。明日までに、同じタルトを……いえ、倍の量を用意してください。それができないなら、私は……!」 「うげ、倍は無理。予算オーバーだわ」 「もう! 本当にしっかりしてください! そのジャージ姿を見てください、中身はどうせまた……」 ナギサが呆れたようにミサキの服装を指差したそのとき。ふと、ナギサの視界に、テーブルの反対側に置かれた「もう一つのタッパー」が入った。 それは、ミサキが食べるはずだったタルトの容器だ。 ……空っぽだった。 ナギサは、自分の記憶を急いで辿った。そして、ある感覚が蘇る。 (……あれ? 私、さっき……) 数十分前。ナギサは、仕事の疲れからか、あるいは極度の空腹からか、意識が朦朧とした状態で、テーブルにあった「もう一つのタルト」を口にしていた。当時は「自分の分を先に少しだけ食べよう」と思った気がする。しかし、あまりに美味しかったため、気づけば完食していたのだ。 つまり。 ナギサは、ミサキのタルトを食べた。そしてミサキは、ナギサのタルトを食べた。 沈黙が流れる。 ミサキは、正座したまま、ゆっくりと顔を上げた。その目は、勝ち誇ったような、あるいは「やっぱりな」と言いたげな、いつもの眠たげな表情だったが、口角がわずかに上がっている。 「……ナギサ」 「…………はい」 「あのタッパー、空だな」 ナギサの顔から、一気に血気が引いた。完璧な正義の味方として説教をしていたはずの彼女は、今や「共犯者」へと成り下がっていた。 「あ……あ、えっと、それは……」 「あーあ。『ズルは許されない』。そう言ったのは誰だっけ? 『反省してない』って怒ったのは誰だっけ? いやー、これはひどいな。俺はただの不具合だったけど、ナギサは計画的に俺のタルトを奪ったってことになるぞ」 「ち、違います! 私は、ただ……その、間違えただけで……!」 「あはは! ナギサが言い訳してる! 録音して保存しておきたいぜ。これはレアイベントだ」 ミサキは、正座を解いて、のっそりと立ち上がった。そして、勝ち誇った様子でナギサの肩をポンと叩く。 「ま、いいよ。お互い様ってことで、今回は『チャラ』にしようぜ。な?」 「……チャラ、ですか」 「そう。だって、お互いタルト一個分を交換して食べただけだろ? 実質的に、所有権の等価交換が行われたってこと。効率的なシステムだよ」 ナギサは、深く、深いため息をついた。同時に、猛烈な脱力感に襲われる。姉のこの適当さと、それを正当化する理論の速さには、どうしても勝てない。そして何より、自分も同じことをしていたという事実に、反論する権利を完全に失っていた。 「……もう、お姉ちゃんのバカ」 「はいはい。さて、腹も満たされたし、俺はもう一度寝るわ」 ミサキはそのまま、ソファへと倒れ込み、一瞬で深い眠りに落ちた。ジャージの裾から、危うい格好であることが伺えるが、それはもうナギサが指摘する気力さえ残っていないほどだった。 ナギサは、眼鏡を外して額を指で押さえ、ひとり呟いた。 「……本当に、しっかりしてくれないんだから」 結局、二人の争いは、甘いタルトの味と共に、あっけなく幕を閉じたのであった。