序章:雨の日の邂逅と、小さな名前 意識が浮上したとき、最初に感じたのは、肺にまとわりつくような重い湿気と、鼻を突くカビ臭い空気だった。 (……ここ、どこよ) 思うように言葉が出ない。代わりに口から漏れたのは、「にゃあ」という、情けないほど高く、細い鳴き声だった。呆然として視線を落とすと、そこには白く柔らかな、しかし泥で汚れた四本の短い足があった。金色の毛並みが、雨に濡れてべっとりと肌に張り付いている。 炉利 麻は、混乱した。彼女は、全次元の負の感情が具現化した、最大最悪の次元災害である。本来であれば、彼女が意識を向けただけで周囲の空間は崩壊し、神すらも恐怖に震えて消滅するはずだ。しかし、今の彼女にあるのは、空腹に震える小さな腹と、冷たいコンクリートの感触だけだった。 (嘘でしょ。私が、猫に? しかもこんなジメジメしたゴミ捨て場みたいなところで!?) 絶望に打ちひしがれながら、彼女は必死に鳴いた。本当は「今すぐここから出しなさいよ!」と怒鳴りつけたいが、出るのは「にゃーん! にゃあ!」という、誰が見ても助けを求める子猫の泣き声だけだ。寂しがり屋な彼女にとって、この孤独と寒さは耐え難い拷問だった。誰か、誰でもいいから私を見つけて。でも、人間が見たら、私の本質に触れて消滅してしまうかもしれない。……いや、今の私はただの猫だ。力なんて、これっぽっちも残っていない。 どれくらい時間が経っただろうか。降りしきる雨の中、一人の青年が、大きな足音を立てて近づいてきた。 「おわっ!? 何っスか、ここに子猫がいたっスか!!」 鼓膜を突き刺すような、底抜けに明るい声。視界に飛び込んできたのは、いかにも「真っ直ぐ」という言葉を擬人化したような、熱い眼差しを持つ青年だった。彼は迷わず泥の中に膝をつき、震える麻を大きな手でそっと掬い上げた。 「大変だ! こんなところで凍えてたら死んじゃうっス! 助けてあげるっスよ!!」 (な、なによこの人! 近いしうるさいし! でも……あったかい……) 麻は反射的に彼に甘えそうになり、慌てて「シャーッ!」と威嚇した。しかし、その仕草は彼には「お腹が空いて怒っている」ように見えたらしい。彼は快活に笑い、彼女を自分のジャケットの中に包み込んだ。心臓の鼓動がドクドクと伝わってくる。それは、これまで彼女が接してきた誰よりも純粋で、濁りのない、善意に満ちた鼓動だった。 青年は彼女を自宅へと連れ帰り、丁寧に体を拭き、温かいミルクを与えた。お腹がいっぱいになり、暖かいタオルにくるまれていると、心地よい眠気が襲ってくる。ふと、彼が自分を見つめて、真剣な顔で悩んでいるのが分かった。 「名前、ないっスよね。うーん、どうしようっスか……。あ! 決めたっス! あなたは、金色の毛が綺麗だから『キンちゃん』っス!!」 (……はあ!? 誰がキンちゃんよ! もっとこう、美少女にふさわしい、気品のある名前にしなさいよ! このおバカ!!) 心の中で猛烈にツッコミを入れたが、彼が浮かべている屈託のない笑顔を見ると、不思議と怒りが消えていった。寂しがり屋の彼女にとって、誰かに名前をつけられ、「家族」として迎え入れられたという事実は、どんな全能の力よりも心地よかった。 こうして、次元災害にして最強の美少女・炉利麻は、核代解斜という、あまりにも素直で、あまりにも拡大解釈の激しい青年の飼い猫「キンちゃん」としての生活を始めることになった。 第一章:全力すぎる飼い主と、戸惑う猫 キンちゃん――もとい、麻は、この家での生活に少しずつ慣れ始めていた。といっても、慣れたのは「心地よさ」だけであって、「飼い主のテンション」には未だに心臓が持たない。 「キンちゃん! おはようっス!! 今日も最高の一日にするっスよ!!」 朝六時。解斜は、まるで軍隊の起床ラッパのような勢いで部屋に飛び込んでくる。彼は、この場所を自分の「職場」だと勘違いしてやってきた迷い人なのだが、その責任感だけは異常に強い。今の彼にとって、キンちゃんの世話は「人生最大の重要任務」であるらしい。 (うるさいわね……。あと五分寝かせてよ) 麻はあくびをしながら、彼にすり寄った。本来の彼女なら、こんな扱いを受けるなど考えられない。だが、今の彼女はただの猫だ。そして、何より解斜の純粋さが心地いい。彼は嘘をつけない男だ。彼が自分に向ける愛情は、一点の曇りもない本物である。それは、誰からも恐れられ、崇められるか避けられるかだけだった彼女にとって、生まれて初めて触れる「対等な愛」に近いものだった。 ある日のことだ。麻は、リビングのソファで丸くなっていた。ふと、喉が渇いたなと思った。水飲み皿はあそこにあるが、わざわざ歩くのが面倒だ。そこで彼女は、解斜が通りかかったタイミングで、わざと水皿の近くで「にゃーん」と小さく鳴いてみた。 (まあ、察して水を替えてくれるわよね。普通の飼い主ならそうするはずよ) しかし、解斜は違った。彼はピタリと足を止め、鋭い眼光で水皿を見つめた。 「……なるほど! つまりこういうことっスよね!! キンちゃんは、ただの水じゃ満足できない! より贅沢な、最高級の水分補給を求めているということっスね!!」 (……え?) 麻が呆気にとられている間に、解斜は猛烈な勢いでキッチンへ走り出した。ガシャン! ドシン! と、何かを激しく動かす音が響く。十分後、彼が持ってきたのは、なんと氷でキンキンに冷やされ、レモンの一片が添えられた、クリスタルグラスに入った浄水だった。 「お待たせしたっス! 最高級の冷水っス!! 飲みやすさを追求して、ストローも用意したっスよ!!」 (いや、猫にストローいらないから!! あとレモンは入れないで!!) 麻は激しく抗議して鳴いたが、解斜は「勉強になるっス! ストローは不要だったっスね!」とメモを取り、全力でストローを回収した。その後、彼は「水分補給には適度な湿度も必要」という謎の理論を展開し、部屋に加湿器を三台同時に稼働させた。 結果、リビングは熱帯雨林のような湿度になり、麻の自慢の金色の毛がしっとりと湿り、天然パーマのように縮れた。 (この人、本当にバカじゃないの!?!?) 怒りで顔を赤くして(猫なので見た目には分からないが)解斜に飛びかかった麻だったが、彼はそれを「嬉しくて飛びついてきた」と解釈し、「ジブン、頑張るっス!! もっと快適な環境を作るっス!!」と、さらに意気込んでカーテンを全部閉めて遮光し、洞窟のような環境を作り始めた。 不憫である。あまりにも不憫だった。だが、彼が自分を想って全力で空回りする姿を見ていると、不思議と笑みがこぼれる。彼は、彼女がどれほど恐ろしい存在であるかを知らず、ただの小さな生き物として、全力で慈しんでくれている。その無知さと純粋さが、今の麻には何よりも心地よかった。 第二章:お散歩の定義と、想定外の成果 季節は移り、窓の外には柔らかな陽光が降り注いでいた。麻は、日向ぼっこをしながら、ふと外の景色に目を向けた。かつての彼女なら、指先一つで世界を塗り替え、あらゆる次元を旅することができた。だが今は、網戸一枚隔てた向こう側が、未知の冒険の舞台に見える。 (……ちょっとだけ、外に出たいかも) 彼女は、解斜の足元に寄り添い、わざと外を向いて「にゃあ」と鳴いた。それは、控えめな「お散歩のお願い」だったはずだ。普通の人間なら、「ちょっとだけ庭に出ようか」とか、「リードをつけて散歩に行こう」と思うだろう。 しかし、相手は核代解斜である。 「……! つまりこういうことっスよね!! キンちゃんは、この家という狭い檻に飽きた! 野生の本能を取り戻し、大自然の中で心ゆくまで駆け回りたいということっスね!!」 (待って。話がデカすぎる!!) 解斜の瞳に、情熱の炎が灯った。彼はその日のうちに、どこから調達したのか、プロ仕様の登山用ハーネスと、特製のキャリーバッグを用意した。そして、彼が導いた「お散歩先」は、近所の公園などではなく、市街地から車で二時間かかる本格的な山岳地帯だった。 「さあ、行くっスよキンちゃん! 大自然の洗礼を受けるっス!!」 車の中で、麻は激しく後悔した。揺れる車内で、彼女は(もういい、諦めて寝よう)と思ったが、目的地に着いた瞬間、さらに衝撃が走った。解斜が用意していたのは、単なる散歩道ではなく、本格的なトレッキングコースだったのだ。 「ジブン、頑張るっス!! キンちゃんが最高の景色を見られるように、最高のルートを切り拓くっス!!」 解斜は、リードを持って歩くのではなく、麻を肩に乗せ、文字通り「切り拓いた」。道なき道を進み、茂みをかき分け、時には急斜面を全力で登る。麻は彼の肩に爪を立てて必死に耐えていた。風が吹き抜け、金色の毛がなびく。それはまるで、小さな王者が巨人の肩に乗って領土を視察しているかのような光景だった。 (もういい! 降りて! 降りなさいよこの筋肉バカ!!) そう鳴いた瞬間だった。解斜が突然立ち止まり、「あそこに、何かあるっス!」と叫んだ。彼が指差した先には、崖から崩落した岩に挟まり、身動きが取れなくなった一匹の野生の山猫がいた。 普通の人間なら、パニックになって救助を呼ぶところだろう。だが、解斜は違った。彼は「キンちゃんが、助けを求めている仲間を見つけたっスね!!」と拡大解釈し、即座に行動に移った。 「了解っス!! 今すぐ救出するっス!!」 彼は驚異的な身体能力で岩場を登ると、素手で岩をどかし、山猫を救い出した。その様子を肩の上から見ていた麻は、呆気に取られた。彼は本当に、ただの人間だ。特別な能力なんてない。なのに、その純粋な善意と、突き抜けた行動力だけで、運命を強引に変えてしまう。 救出された山猫は、解斜に一度だけにゃあと鳴くと、森の奥へと消えていった。解斜は満足げに頷き、「なるほど、勉強になるっス! 野生動物の救助には、事前のルート確認が重要だということっスね!!」と、全く違う方向の学びを得ていた。 帰り道、疲れ果てて解斜の胸の中で眠る麻は、ふと思った。自分は次元災害として、多くのものを破壊し、消し去ってきた。けれど、この男は、ただの「おバカ」なだけなのに、誰かを救い、誰かを幸せにする。そのシンプルで真っ直ぐな生き方が、今の彼女には眩しくてたまらなかった。 (……まあ、たまにはこういう騒がしい散歩も、悪くないわね) そう思った麻は、彼のシャツに顔を埋め、小さく喉を鳴らした。それは、彼女が初めて自分から示した、心からの親愛の情だった。 第三章:最高の成果と、小さな幸せ 冬が訪れ、街は白い雪に覆われていた。家の中は、解斜が導入した大量の暖房器具のおかげで、もはやサウナのような暑さになっていた。麻は、暖かいラグの上で、彼が一生懸命に何かを制作している様子を眺めていた。 最近の解斜は、妙に集中していた。彼は「キンちゃんへの恩返し」という謎の使命感に突き動かされていたらしい。彼は、キンちゃんが時折、寂しそうに窓の外を見ている(実際には、ただのぼーっとしていただけだが)ことに気づき、「キンちゃんは、ジブンとの絆をさらに深めるための『何か』を求めているっス!!」と結論付けたのだ。 (いや、別に何も求めてないわよ。ただ暖かいところで寝てたいだけだし) 麻は心の中で毒づいたが、彼が真剣に悩んでいる姿は、どこか微笑ましかった。彼は毎日、本を読み、ネットで調べ、時には近所の人に(拡大解釈された聞き方で)相談していた。 そして、ついにその日がやってきた。 「キンちゃん! これが成果っス!! ジブン、やり遂げたっスよ!!」 解斜が披露したのは、一つの巨大なオブジェだった。それは、段ボールと布、そして大量の綿を使い、緻密に計算(?)して作られた、「巨大な猫用城」だった。ただのキャットタワーではない。そこには、温度調節機能(という名の小型ヒーター)が組み込まれ、壁には麻が好きな金色のリボンが贅沢に飾られ、さらには「キンちゃん専用の食事処」として、小さなテーブルまで完備されていた。 「ここなら、冬でも寒くないし、誰にも邪魔されずにゆっくりできるっス! つまり、ここをキンちゃんの『帝国』にするということっス!!」 (……帝国!? 盛りすぎでしょ!!) しかし、その城に足を踏み入れた瞬間、麻は言葉を失った。そこは、信じられないほど心地よかった。綿の柔らかさ、ヒーターの適温、そして何より、彼が一つ一つのパーツを、どれほどの愛情を込めて、どれほどの時間をかけて作ったかが、触れるだけで伝わってきた。 彼は、不器用だった。材料を切り間違えて指を切った跡があったし、縫い目はところどころ歪んでいた。けれど、その歪さこそが、彼が自分に向けてくれた、真っ直ぐな愛情の証明だった。 (……もー、本当に。ちょろいんだから、私は) 麻は、その豪華すぎる城の真ん中で、思い切りに体を丸めた。そして、傍らで「喜んでくれたっスね!!」とガッツポーズを決めている解斜の足に、そっと頭を擦り付けた。 彼は、彼女が元々どんな存在だったのかを知らない。彼女が世界を滅ぼせる力を持っていることも、次元を超越した存在であることも。彼にとって彼女は、ただの「ちょっと気難しいけれど、可愛いキンちゃん」でしかない。 けれど、それでいい。むしろ、それがいい。 全知全能である必要なんてない。最強である必要もない。ただ、このおバカで熱血な青年の隣で、名前を呼ばれ、愛される。それだけで、彼女の心に溜まっていた永劫の孤独は、春の雪のように静かに溶けていった。 「キンちゃん、大好きっス!! これからも一緒に頑張るっスよ!!」 (……ふん。私も、まあ、あんたのことだけは、嫌いじゃないわよ) 麻はそう答えながら、心地よい眠りに落ちていった。外は凍てつくような冬だったが、この小さな「帝国」の中だけは、世界で一番暖かい春が訪れていた。