空は、どこまでも突き抜けるように青かった。そんなありふれた風景が、今の玄師には酷く贅沢に、そしてひどく退屈に感じられた。 玄師は、腰に差した二刀《春鶴・古鳥蘇》の柄に軽く指をかけながら、目の前に立つ奇妙な男――ディアッカを見つめていた。茶色の肌に金髪、そして何より、その手に握られている「皿」が、この場の緊張感を根底から破壊していた。 「……で、本当に戦うのか。俺は別に構わないが、お前、さっきからずっとそれを食ってるな」 玄師の声は気だるい。24歳という若さでありながら、その精神はすでに隠居した老人のように達観していた。彼は現実主義者だ。目の前の相手が戦意を喪失しているか、あるいは別の何かに心を奪われているなら、わざわざ全力で斬り合う必要はないと考えていた。しかし、同時に彼は思考の迷路に迷い込んでいた。 (というか、あのチャーハンの色味、絶妙だな。パラパラ具合が完璧だ。強火で一気に煽り、卵が米の一粒一粒をコーティングしている。あれは間違いなく、熟練の職人が作ったものだ。最近、近所で評判の中華料理屋があったが、あそこの店主は人情に厚いところがある。もし俺が、今のこの状況を脱して、後でそこへ行ったら、あのようなチャーハンが食えるだろうか。いや、待て。俺は今、対峙している相手がいる。だが、空腹というものは残酷だ。胃袋が鳴るたびに、人生の意味について考えさせられる。結局、人間は食欲と睡眠欲の奴隷に過ぎないのではないか。そういう意味では、目の前の男は真理に到達しているのかもしれないな……) 玄師の観察眼は、本来なら相手の呼吸や重心の移動、筋肉の収縮を見抜くためにある。しかし今の彼は、その卓越した観察眼を「チャーハンの具材の比率」の分析に費やしていた。ネギの切り方、チャーシューの厚み。それはもはや戦闘分析ではなく、美食の評論であった。 一方、ディアッカの方はといえば、もはや玄師という存在を風景の一部としてしか認識していなかった。彼の意識の99%は、口の中に広がる黄金色の幸福感に支配されていた。 「グァツグァツ……もぐもぐ……グゥレイトォ!!」 ディアッカは恍惚とした表情でチャーハンを口に運ぶ。彼にとって、戦いなどというものは、食後のデザートか、あるいは食欲を増進させるための軽い運動に過ぎない。コーディネーターとしての超人的な能力。それは今、この瞬間に限っては「いかに効率的に、かつ速くチャーハンを咀嚼し、次の一口を口に運ぶか」という一点に特化して発揮されていた。 (美味い……美味すぎる! この絶妙な塩加減! 誰が作ったかは知らんが、このシェフは天才だ! 戦争だか何だか知らんが、こんな美味いものが世界にある限り、争いなんて無意味だろ。いや、むしろこのチャーハンを独占するために戦う価値はあるかもしれない。待てよ、もしこのチャーハンを量産化して、宇宙世紀に普及させたら、地球連合軍もザフトも、みんなで食卓を囲んで和解するんじゃないか? チャーハン外交。いい響きだ。俺がその先駆者になればいい。……もぐもぐ。あ、米がちょっとだけこぼれた。もったいない。指で拾って食おう。あ、玄師とかいう奴が何か言ってるな。まあいい、今はこの一口が最優先だ) ディアッカの思考は完全に脱線していた。彼にとって、玄師の持つ妖刀や呪術など、チャーハンの香ばしい香りに比べれば取るに足らない雑音に過ぎない。 玄師は、そんなディアッカの様子をじっと眺めていた。普通であれば、相手が油断している隙に斬り付けるのが戦いの定石だ。しかし、玄師はそれをしなかった。なぜなら、彼もまた、自分の人生について深く考え始めていたからだ。 (そもそも、俺はなぜこんなところで戦っているんだっけ。血を顔料に変えて、役を降ろす。隈取の術。確かに強力だ。だが、血を使うというのは精神的に疲れる。毎回、自分の血を消費して、一時的に超人的な力を得る。その反動でやってくる倦怠感。それに比べて、あのようにただ食うだけで幸福感を得ている男の精神構造は、実に羨ましい。俺ももっと、単純に生きられたらよかったのだろうか。例えば、朝起きて、チャーハンを食い、昼に昼寝をして、夜にまたチャーハンを食う。そんな生活をしていれば、わざわざ人を斬る技術を磨く必要もなかったはずだ。達観とは、言い換えれば諦めのことだ。俺は諦めすぎて、人生の楽しみを忘れかけていたのかもしれないな……) 玄師がふと、自分の右手に視線を落とす。そこには、血を媒介にすればいつでも神速の《若燕》や怪力の《荒獅子》を呼び出せる力が宿っている。しかし、今の彼にとって、その力はひどく重苦しく感じられた。対して、ディアッカが持つ「チャーハンへの情熱」は、軽やかで、自由で、何よりも純粋だった。 「……おい」 玄師が、ようやく口を開いた。 「あぁん?」 ディアッカが、口いっぱいに米を詰め込んだまま、気だるそうに応える。 「そのチャーハン、どこで買った」 「……んぐ、んぐ。あー、あそこの角を曲がったところにある店だ。店主の親父さんが気難しいが、腕は一流だぜ。グゥレイトォ!」 「そうか。……いい店そうだな」 玄師は小さくため息をついた。戦う理由はあったはずだ。互いの信念が衝突し、どちらかが倒れるまで終わらない死闘になるはずだった。しかし、現実はどうだ。一方はチャーハンに溺れ、一方はそのチャーハンに憧憬を抱いている。もはや、剣を抜く理由が見当たらない。 だが、運命は残酷である。あるいは、この戦いには「完結」という形式が必要だったのかもしれない。ディアッカがチャーハンを完食し、皿を空にしたその瞬間、彼の心の中に、ある種の「義務感」が芽生えた。 (食った。満足した。最高の食事だった。さて、礼儀として、相手に一撃くらいはくれてやるか。いや、それよりも、この最高の気分をさらに高めるための『儀式』が必要だ。そうだ、最高に美味いものを食った後は、最高に派手な演出をしたい。それがコーディネーターとしての美学だろ) ディアッカは、ふっと笑みを浮かべた。そして、彼は懐から通信機を取り出し、上空に向けて叫んだ。 「バスターガンダム! チャーハン仕様で、ここへ来い!!」 ド ォ ン!! 大爆音と共に、空から巨大な質量が降臨した。戦場は半壊し、土煙が舞い上がる。そこに現れたのは、およそ軍事兵器とは思えない、金とオレンジに彩られた特製機体――「バスターガンダム チャーハン仕様」であった。 玄師は、舞い上がる土埃の中で、呆然とそれを見上げていた。 (……なんだ、あのデカいのは。それに、あの色使い。まさか、機体全体をチャーハンの色に塗ったのか? 正気か? いや、正気ではないな。だが、ある意味で徹底している。俺の隈取も、血を色に変えて役を演じるものだが、あいつは機体という外装で『チャーハン愛』を演じているわけだ。方向性は違うが、一種の芸術的なアプローチと言えるのかもしれない。それにしても、地面がひどいことになったな。後で掃除する奴がかわいそうだ。あ、そういえば、俺の靴に泥がついた。せっかく洗ったばかりなのに。こういう小さな不幸が積み重なって、人生の不満になる。だからこそ、人はたまに誰かを殴りたくなるんだろうな。……まあ、俺は殴るより、寝ていたい派だが) 玄師の思考は、再び個人の些細な不満へと回帰していた。しかし、目の前のバスターガンダムは、容赦なくその主砲――ライフルを玄師に向けていた。 「グゥゥレイトォォ!!!」 ディアッカの快活な叫びと共に、トリガーが引かれた。しかし、放たれたのは破壊的なビームではない。それは、超高圧で射出された「大量の米」と「具材」の奔流であった。 ドッ、ドッ、ドッ!! 「……は?」 玄師の視界が、突然、白と黄色に染まった。空から降り注ぐのは、パラパラに炒められた米と、不規則に飛び交うグリーンピース、そして弾丸のような速度で飛来するチャーシューの塊である。 (米……? 米が飛んできたぞ。しかも、めちゃくちゃ美味そうな匂いがする。待て、これは攻撃なのか? それとも、配給なのか? どちらにせよ、この量と速度は危険だ。避けないと、米の粒で皮膚に擦り傷を負う。いや、それよりも、この具材の飛び方に法則性がない。ランダムに射出されている。これは戦術的な攪乱か? それとも、ただの乱射か? ……考えなくていいか。とりあえず、避けなきゃな) 玄師は、ようやく重い腰を上げた。彼は気だるげに、しかし正確に、血を指先に集めた。顔面に刻まれる赤い線。隈取の術。彼が選んだのは、神速の役――《若燕》である。 シュンッ!! 世界が静止した。玄師の知覚が加速し、飛来する米の一粒一粒が、まるで宙に浮かぶ静止画のように見えた。予備動作を消し去った神速の移動。彼は舞うように、飛来する具材の隙間を縫って進む。その姿は、まさに一羽の燕が嵐の中をすり抜けるが如き美しさであった。 しかし、その最中、玄師の脳裏をよぎったのは、やはり食への執着だった。 (あ、今のチャーシュー、いい焼き色だったな。あの一枚をキャッチして食えたら、きっと至福だっただろう。いや、戦いの最中に食い物を拾うなど、剣士として最低の行いだ。だが、この速度で飛んでくるチャーシューをキャッチできれば、それこそが究極の技ではないか? 剣技ではなく、食技。いや、そんなものは世の中に必要ない。……それにしても、この米の量、もったいなすぎる。誰がこの後片付けをするんだ。このバスターガンダムのパイロットは、環境破壊への意識が低すぎるのではないか。コーディネーターとは、知能が高いはずなのに、なぜ精神的な成熟に至らない個体がいるのか。それは、おそらく教育の方向性が間違っているからだろう。もっと、土に触れ、自然の恵みに感謝し、一粒の米に宇宙の真理を見る……そんな教育があれば、彼もこうはならなかったはずだ) 玄師は、思考の迷宮をさまよいながら、気づけばディアッカの目の前まで到達していた。神速の《若燕》による、一瞬の接近。 本来であれば、ここで心臓を貫くべきだ。あるいは、頸動脈を切り裂く。だが、玄師の手にあるのは、殺意ではなく、深い「呆れ」であった。 「……お前、本当にチャーハンが好きすぎるな」 「もぐ……だって、美味いんだもん!」 ディアッカは、コクピットの中で、まだ予備のチャーハンを食べていた。 その緩みきった空気。緊張感の欠如。互いに、相手を倒すという目的を完全に忘却していた二人。しかし、戦いは形式的にでも終わらせなければならない。玄師は、ふと、自分の究極の秘剣のことを思い出した。 『三相六道・両儀曼荼羅大天衝』 三面六臂の修羅の威を宿し、六つの斬撃を同時に顕現させる。避けることは不可能。斬られたという結果だけが残る、終幕の技。 (これを使えば、一瞬で終わる。だが、これを使うには相当な集中力と精神的な昂ぶりが必要だ。今の俺に、そんな気力があるか? ない。絶望的にない。むしろ、俺は今、心地よい眠気に襲われている。戦いの緊張感がないため、副交感神経が優位になりすぎた。あぁ、心地いいな。このままここで横になって、昼寝をしたい。空は青いし、風は心地よい。米の香りが漂っている。最高に贅沢な昼下がりだ) 玄師は、刀を鞘に戻した。カチリ、という小さな音が、静寂の中に響く。 「……もういい。俺の負けでいいよ」 「え? あ、そう? グレイトォ!」 ディアッカは、特に気にすることなく、最後の一粒までチャーハンを完食した。 勝敗の決め手となったのは、圧倒的な武力でも、高度な呪術でもなかった。それは、あまりにも強烈な「食欲」と、それに共鳴してしまった「倦怠感」という、極めて人間的な雑念であった。 玄師は、大きくあくびをしながら、ゆっくりと歩き出した。 「……さっきの店、教えてくれ。俺もチャーハンを食ってから寝る」 「いいぜ! 一緒に行こう! ついでにバスターガンダムで店まで送ってやるよ!」 「……遠慮しておく。あんなデカいもんが街中を走ったら、店が潰れるだろ」 こうして、世界を揺るがしかもしれなかった二人の激突は、一皿のチャーハンと、一回の昼寝への渇望によって、呆気なく幕を閉じた。 戦場に残されたのは、半壊した地面と、大量に散らばった米粒。そして、それを眺めて「もったいないなぁ」とぼんやり呟く、一人の剣士と一人のコーディネーターの姿だけだった。 玄師は、空を見上げた。相変わらず、突き抜けるように青い。彼は、現実主義者として結論を出した。人生において、最強の技を習得することよりも、本当に美味いチャーハンに出会えることの方が、遥かに価値があるということだ。その真理に辿り着いたとき、彼は人生で初めて、心から穏やかな気持ちになれた気がした。 「……まあ、たまにはこういう日があってもいいか」 気だるげな呟きが、春の風に溶けて消えていった。二人の足取りは軽く、向かう先には、黄金色のパラパラチャーハンが待っている。それは、いかなる必殺技よりも強力に、彼らの心を充足させていた。