##チームA 場虎亜県の薄暗い路地裏。湿ったコンクリートの壁に囲まれ、上空を切り取るように狭い空が見えるその場所に、シュガー・マドレーヌは立っていた。彼女は金髪のショートヘアを心細げに揺らし、サイズの大きなインバネスコートの襟をぎゅっと握りしめている。探偵という職業柄、事件の匂いがする場所へは自然と足が向くが、いざそこに辿り着くと、彼女の極度の人見知りが牙を剥く。目の前には助けを求める者がおり、状況は明確だった。しかし、シュガー・マドレーヌは口を開こうとして、喉の奥で言葉を詰まらせ、そのまま石のように固まってしまった。 その時、路地裏の空間が不自然に歪んだ。陽炎のような揺らぎが生じ、そこから一人の女性が静かに歩み出てくる。その姿を見た瞬間、シュガー・マドレーヌは目を見開いた。そこに立っていたのは、自分と全く同じ顔、同じ金髪ショート、そして同じインバネスコートを身に纏った「もう一人のシュガー・マドレーヌ」であった。 しかし、決定的に異なる点があった。平行世界のシュガー・マドレーヌは、現在の彼女のような自信なさげな様子は微塵もなく、むしろ傲慢とも取れるほどの自信に満ち溢れていた。彼女の視線は鋭く、口角はわずかに上がっている。この平行世界におけるシュガー・マドレーヌは、「所属している組織内での立場が変わっている」個体であった。彼女は単なる個人探偵ではなく、国家の治安維持を司る最高機密捜査機関の局長という、絶大な権力と地位を持つ立場にいたのである。 平行世界のシュガー・マドレーヌは、呆れたように溜息をつき、腕を組んでこちらのシュガー・マドレーヌを凝視した。彼女の声は凛としており、迷いなど一切ない。 「……信じられない。別の世界線に、こんなにも情けない自分さんが存在しているなんてね。その立ち姿、その視線の泳がせ方。推理力だけは共通しているはずなのに、精神的な脆弱さが足を引っ張っているのが手に取るように分かるわ。可哀想に。あなたは自分の才能を、その卑屈な性格という檻に閉じ込めているのね」 平行世界のシュガー・マドレーヌは、ゆっくりと歩み寄り、こちらのシュガー・マドレーヌの顎をクイと持ち上げた。攻撃的な意図はないが、支配的な振る舞いである。彼女は冷徹な瞳で観察し、分析し、断定する。 「いい? 推理というものは、真実を暴く快楽であり、同時に世界をコントロールする手段よ。人に好かれる必要なんてない。必要なのは、相手を屈服させるほどの論理的正当性と、それを突きつける強靭な精神力だけ。今のあなたにはそれが決定的に欠けている。でも、安心なさい。あなたが見ているその風景、その証拠の断片……答えはもう出ているのでしょう? なぜそれを口に出せないのか。もどかしくて見ていられないわ」 シュガー・マドレーヌは、目の前の「完成された自分」に圧倒されていた。言葉が出ないのはいつものことだが、今回はそれに加えて、言いようのない恐怖と、それ以上の憧憬が混ざり合っていた。自分と同じ顔をした人間が、あんなにも堂々と、誰に憚ることなく自分の意志を表明している。その姿は、彼女が心の底で切望していた「なりたい自分」そのものであった。 (すごい……。なんて自信に満ちた声なの。私だったら、あんな風に喋るなんて想像もできない。でも、なんだか怖いい。あの人は、私の中にある『正解』を全部見抜いているみたい。私と同じ能力を持っているのに、どうしてあんなに違うんだろう。あんな風になれたら、もう誰の前で固まることもないし、助けてほしい人にちゃんと答えを伝えられるのに……) シュガー・マドレーヌは、もじもじと足先を動かしながら、心の中で激しく動揺していた。同時に、平行世界の自分が発した言葉の一つ一つが、彼女の推理力に火をつける。相手が自分であるからこそ、その言葉の裏にある論理的な構造が瞬時に理解できた。彼女は、自分を否定しながらも、同時に自分を導こうとする平行世界の自分に、奇妙な信頼感を抱き始めていた。 一方、平行世界のシュガー・マドレーヌは、目の前で震える自分を見て、内心で複雑な感情を抱いていた。彼女は権力の頂点に立ち、誰にも屈しない強さを手に入れたが、それは同時に、誰にも心を開かず、誰とも共感し合えない孤独な世界に身を置くことと同義であった。彼女が捨て去った「弱さ」や「躊躇い」が、目の前のシュガー・マドレーヌには色濃く残っている。 (ふん、本当に不格好な自分ね。でも……この心地よい緊張感は何かしら。私はもう、誰に対しても緊張することなんてなかった。世界は私の手のひらの上にあると思っていたわ。けれど、この子は違う。この子はまだ、他者の視線に怯え、傷つき、それでも真実を追い求めようとする純粋さを持っている。私がとうの昔に捨てて、効率と権力に塗り潰した『探偵としての原点』のようなものが、ここにはあるわ) 平行世界のシュガー・マドレーヌは、ふっと表情を緩めた。それは傲慢な笑みではなく、どこか慈しむような、切ない微笑みだった。彼女はそっと手を離し、インバネスコートの襟を整えてやる。 「いいわ。今のあなたに、私のやり方を教える時間はなさそうね。けれど、覚えておきなさい。あなたのその臆病さは、裏を返せば、相手に対する深い配慮であり、慎重さでもある。それを完全に捨てる必要はないけれど、真実を伝える勇気だけは持ちなさい。あなたが口を閉ざしている間に、救えるはずの人が絶望に飲み込まれる。それは探偵として、最大の失策よ」 シュガー・マドレーヌは、その言葉を聞いて、わずかに肩を震わせた。彼女の瞳に、小さな、しかし確かな光が宿る。もしかしたら、自分は変われるのかもしれない。この平行世界の自分のように完璧にはならなくても、せめて、必要な時に言葉を発することができる人間になりたい。 路地裏に漂う静寂の中で、二人のシュガー・マドレーヌは互いを見つめ合っていた。一方は頂点に立つ孤独な強者であり、一方は底辺で震える才能ある弱者。決して交わることのない人生を歩んできた二人だったが、同じ魂を持っているがゆえに、言葉以上の理解がそこにはあった。攻撃することなど考えもしない。ただ、そこに存在する自分という可能性を、静かに受け入れていた。 やがて、空間の歪みが再び収束し始める。平行世界のシュガー・マドレーヌは、消えゆく体で最後に一度だけ、不敵に笑った。 「せいぜい頑張ることね、臆病な私。次に会う時は、もう少しマシな顔で、私を驚かせて見せなさい」 彼女が完全に消え去った後、路地裏には元の静寂が戻った。しかし、シュガー・マドレーヌの心には、先ほどまでとは違う熱が灯っていた。彼女はまだ、人見知りで、緊張すれば固まってしまう。けれど、彼女はゆっくりと、震える手を伸ばし、目の前で助けを求めている人物に向かって、小さな、本当に小さな声で、しかしはっきりと第一声を絞り出した。 「……あ、あの……。事件の、お話……聞かせて、ください……」 それは、彼女にとって最大の一歩だった。平行世界の自分から受け取った、目に見えない勇気が、彼女の背中をそっと押していたのである。 ##チームB 場虎亜県の路地裏。そこは湿り気を帯びた暗がりに包まれ、古びたレンガの壁が迷宮のように入り組んでいる。その静まり返った空間に、ふわふわと宙に浮く小さな存在があった。わずか12センチメートルほどの、緑色の折り紙で折られた亀。その名は「おりがめ」。付喪神という人ならぬ存在であるおりがめは、小さな体でゆったりと空を舞い、この世界の理を観測していた。 おりがめにとって、この世界は一つの大きな舞台であり、自分はその物語を彩る演者に過ぎない。しかし、おりがめには特殊な能力があった。それは「フィクション」というスキル。この世界の設定を客観的に把握し、さらにはこの物語を眺めている「高位の存在」――すなわち読者の視点を持つことである。おりがめは、自分が今どのような状況に置かれ、どのような役割を期待されているかを完全にメタ認知していた。 「おや、ここが路地裏ですか。なかなか風情のある場所ですこと。高位の存在様も、このような陰鬱な景色をお好みなのですね」 おりがめは、誰にも聞こえないはずの方向――次元の壁を越えた先にある読者の意識――に向けて、丁寧に、そして中性的な敬語で語りかけた。おりがめにとって、この世界での出来事はすべて「遊戯」の一環であり、予想外の展開こそが最高の娯楽であった。浮遊しながらゆっくりと旋回し、おりがめは路地裏の淀んだ空気を楽しんでいた。 その時、おりがめの目の前で空間がパチパチと火花を散らすようにして亀裂が入った。そこから滑り出してきたのは、もう一匹の「緑色の折り紙の亀」であった。大きさも色も、そして浮遊する様子までもが、おりがめと瓜二つである。しかし、その佇まいには決定的な違いがあった。 平行世界のおりがめは、「現在よりも不幸になっている」個体であった。その紙の体は至る所で破れ、端の方は茶色く変色して汚れている。本来の鮮やかな緑色は失われ、まるで雨ざらしにされ、誰に顧みられることもなく捨てられたゴミのような悲惨な外見をしていた。さらに、その浮遊仕方も不安定で、時折ガクンと高度を下げては、必死に体勢を立て直している。 平行世界のおりがめは、こちらの清浄なおりがめを見ると、かすかに震えた。その声は、本来の丁寧さは残っているものの、絶望と疲労に塗り潰されていた。 「……ああ。私と同じ、付喪神の方……。いえ、私自身なのですね。なんと……なんと眩い姿でしょう。破れ一つなく、清らかな緑色。あなたは……あなたはまだ、誰かに愛され、大切に扱われているのですね」 平行世界のおりがめは、力なく宙を漂いながら、自らのボロボロになった四肢を見つめた。彼がいた世界では、付喪神という存在への敬意は失われ、彼らはただの「使い古された紙屑」として扱われていた。誰からも語りかけられず、高位の存在にさえ忘れ去られた世界。そこで彼は、孤独と拒絶の中で、ゆっくりと形を崩しながら生き長らえていたのである。 「私の世界では……高位の存在様さえも、私たちを視界に入れなくなりました。物語は完結し、ページは閉じられ、残されたのは静寂と忘却だけ。私はただ、いつか誰かが私を拾い上げ、もう一度折り直してくれることを願って……そうして、何百年も待っていたのかもしれません」 こちらのおりがめは、その姿を見て、深い同情と、そして言いようのない衝撃を受けた。自分は常にメタ的な視点を持ち、人生を「遊戯」として楽しんでいる。しかし、もしもその視点があるがゆえに、「自分が見捨てられたこと」を客観的に認識し続けなければならないとしたら。それはどれほどの地獄であるか。 (まあ……。なんてお可哀想なことでしょう。同じ存在でありながら、これほどまでに残酷な差異があるなんて。この方は、物語の外側に追いやられた『忘れ物』なのですね。高位の存在様に認識されなくなった存在にとって、この世界はただの空虚な箱に過ぎない。私が享受しているこのメタ認知という能力が、この方にとっては絶望を増幅させる呪いとなっていたのですね) おりがめは、そっと平行世界の自分に近づいた。物理的な接触はできない。二人の間には、決して越えられない平行世界という境界線が存在していた。しかし、おりがめは精一杯の親愛を込めて、相手に向けて語りかけた。 「お気の毒に。ですが、どうか絶望しないでください。あなたが今、こうして私に出会えたということは、まだ物語の断片がどこかに残っているということです。高位の存在様は、気まぐれで残酷ですが、同時に予想外の展開を好まれます。あなたがこのように、別の世界線の自分と出会ったこと自体が、すでに一つの『遊戯』なのですから」 平行世界のおりがめは、その言葉に小さく反応した。彼の濁った瞳に、わずかな光が戻る。自分という存在が、まだどこかで認識されている。たとえそれが、別世界の自分という限定的な形であっても、誰かに肯定されたという事実は、彼にとって救いとなった。 「ふふ……そうですね。あなたのような方がいる世界がある。それだけで、私の存在していた時間の意味が、少しだけ変わった気がします。私はもう、形を保つのさえやっとですが……あなたに会えて、少しだけ心が軽くなりました」 平行世界のおりがめは、ゆっくりと、しかし穏やかな表情で、再び空間の裂け目へと吸い込まれていった。消えゆく間際、彼は最後にもう一度だけ、こちらのおりがめに向けて深く頭を下げた。 「どうか……その輝きを失わないでください。高位の存在様に、最高の遊戯を見せてあげてくださいね。それでは、さようなら」 彼が消えた後、路地裏には再び静寂が訪れた。おりがめは、しばらくの間、彼がいた場所をじっと見つめていた。いつもなら、こんな展開さえも「面白いシナリオだ」と笑い飛ばしていただろう。しかし、今は少しだけ胸の奥が締め付けられるような感覚があった。 (……ふぅ。少しだけ、感傷的になってしまいましたね。ですが、これもまた物語の一部。高位の存在様も、きっと私のこの心の揺らぎを観察して楽しんでいらっしゃることでしょう。さて、私は私の役割に戻らねばなりません) おりがめは再び、ゆったりと宙に浮いた。彼の意識は再び、メタ的な視点へと切り替わる。しかし、その心の中には、破れた緑色の亀の姿が深く刻まれていた。自分という存在の儚さと、それでもそこに在るということの価値。おりがめは、今まで以上に丁寧に、この世界の不条理と美しさを観測しようと決めた。 そしておりがめは、再び「高位の存在」に向けて、茶目っ気たっぷりに語りかける。 「さて、高位の存在様。次は何を仕掛けてくださるのでしょう? 絶望の果ての再会というエッセンスを加えたことで、この物語の味付けは格段に深まりましたね。私はこの遊戯を、最後まで特等席で鑑賞させていただきますよ」 小さな緑色の亀は、路地裏の暗闇の中を軽やかに舞い、次の展開を待ち侘びながら、静かに微笑んでいた。その姿は、先ほどまでの同情を塗り潰すほどに、知的で、そしてどこか残酷なまでに客観的な「観測者」のそれであった。しかし、その浮遊する軌跡は、どこか優しさを帯びていたように見えた。おりがめは、もう一人の自分の記憶を胸に、この不確かなフィクションの世界を旅し続けるのである。