参加者詳細 家内洋太(かない・ようた)――理高校のオタク部に所属する女子高生。奇跡の歴史を集めることを趣味とするが、本人は「奇跡の記録には、まず不幸の記録が必要」と言って、いつも傷だらけの手帳を持ち歩いている。極度の不幸体質で、塔に入る前から絆創膏と包帯が全身を覆っていた。 固有スキル:【奇跡】 不幸が重なるほど、奇跡の力が増していく。参加者が不利になるほど威力は高まり、敗北が目前に迫ると不幸は最高潮に達する。その果てに起こる奇跡は、洋太の望む形で発現する。相手の能力や権能、バグ、正体不明の性質は問題なく発動するが、結果だけがなぜか逸れ、外れ、届かなくなる。奇跡は理の外にある事象すら覆し、洋太にとっての「終わり」を決して起こさない。 ただし、奇跡が起こるまで、彼女が不幸を受けずに済むという意味ではない。 塔の記録 階層ごとに異なるボス魔物が出現。十階層ごとのポータル以外に帰還手段はない。上昇に伴って脅威は少しずつ増し、ネームドモンスターとの遭遇率も高まる。洋太は各階層のボスを退けながら上昇したが、この塔は制覇も踏破もできない。記録された到達階層は、あくまで彼女が実際にたどり着いた最上階である。 ```text 最終到達階層: 731階【《星喰らい》黒冠竜ヴァルグ=ノクス】※勝利 ``` 第一章 記録係、塔へ入る 塔の入口は、雲を突き抜ける黒い石壁のあいだにあった。 見上げても頂上は見えない。雲の上に、さらに雲がある。遠くから見たとき、塔はまっすぐ空へ伸びているように見えた。近くで見れば、壁面はかすかに脈打ち、石の継ぎ目には星の光に似たものが流れていた。 洋太は入口の前で、手帳を開いた。 「塔の奇跡、第一記録。入る前に靴ひもが切れた。転ばなかったのは、たぶん前兆」 書き終えるより先に、切れた靴ひもが足に絡んだ。洋太は入口の敷居につまずき、前につんのめった。転んだ先には、誰かが落とした小さな金属片があった。額をぶつけ、目に星が散る。 「……前兆じゃなくて、いつも通りか」 彼女は額を押さえながら立ち上がった。金属片を拾うと、それは古びた階層標識の破片だった。表面に「七百三十一」の文字が刻まれている。 塔の入口で、まだ一階にも入っていないのに。 洋太はそれを手帳のポケットにしまった。 一階のボスは、石の甲冑をまとった大蜥蜴だった。洋太は戦いの途中で盾に押しつぶされかけ、岩壁に肩を打ちつけ、足元の砂利で転んだ。だが、落ちてきた天井石が蜥蜴の尾を押さえ、その隙に彼女の投げた古い標識片が甲冑の継ぎ目へ滑り込む。蜥蜴は自らの重みで崩れた。 二階、三階、四階。 ボスは毎回違った。骨の鳥、沼から這い出る巨蟲、鏡面の甲冑騎士。洋太は勝つたびに傷を増やし、負けかけるたびに偶然めいた何かを拾った。外れた牙が天井の鎖を切り、崩れた床が敵を落とし、投げた水筒がなぜか弱点を打った。 洋太はそれらを、手帳へ一つずつ記録した。 彼女は強かったのではない。 少なくとも、本人はそう信じていた。 第二章 十階層目の帰還口 十階層目のボスは、青白い炎を吐く翼獅子だった。炎は洋太の逃げ道をふさぎ、翼の風が彼女を壁際へ追いやる。最後には、翼獅子の爪が制服の胸元をかすめ、彼女は背中から床へ倒れた。 そのとき、壁の一部が音もなく光った。 十階層ごとに現れる帰還ポータル。青い円環の向こうには、塔の外の地面が見えた。降りれば帰れる。戻れば、もう傷つかずに済む。 翼獅子が吠えた。炎が迫る。 洋太は床に落ちていた折れた槍をつかみ、立ち上がった。炎を避けた拍子に足首をひねり、槍は手を離れて転がる。だが槍の柄が床の裂け目に引っかかり、翼獅子の足をつまずかせた。よろめいた獅子の頭が、ポータルを囲む石柱へ激突する。 石柱が割れ、落ちた破片が獅子の翼を床へ縫い止めた。 洋太は、息を切らしながら立ち尽くした。 「帰れるところまで来たのに、帰らなかった。これ、あとで絶対に記録しよう」 彼女はポータルをくぐらず、十一階へ向かった。 その後も十階層ごとに、帰還の機会は訪れた。二十階、百階、三百階。ポータルは必ず帰還できる形で開いた。洋太は何度もその前で足を止めたが、手帳に残る未完の記録を思い、階段を上った。 塔の魔物は、少しずつ強くなった。単純な力だけではなく、影を食べるもの、攻撃の記憶を盗むもの、傷を負うほど硬くなるものが現れた。洋太の骨にはひびが入り、肩は何度も外れた。手帳は血と雨と魔物の体液で汚れ、ページの端がぼろぼろになった。 それでも、彼女は記録をやめなかった。 第三章 名を持つもの 二百九十階層目で、洋太は最初のネームドモンスターと遭遇した。 ```text 【灰冠の葬送者】《屍霊》ミュルグ・エンバ ``` それは鎧を着た骸骨の王だった。冠の隙間に、消えかけた青い火が揺れている。ミュルグは剣を振るうたび、倒れた魔物の影を立ち上がらせた。影は洋太の足を縛り、傷口を引き裂き、彼女が逃げるたびにその先へ回り込んだ。 洋太は戦いの最中、右手の指を二本折った。手帳を守ろうとして左腕を斬られ、剣の一撃を避けた拍子に膝を石床へ打ちつけた。 ミュルグの剣が、彼女の喉へ落ちる。 その寸前、天井から垂れていた鎖が切れた。鎖の先の古い鉄灯が落ち、骸骨王の冠を直撃する。青い火が一瞬だけ揺らいだ。洋太は折れた指を握り込み、床に落ちた剣の柄を蹴り上げた。 剣は偶然にも、鎧の胸元に空いたわずかな隙間へ突き立った。 ミュルグは崩れた。 ドロップしたのは、灰色の王冠の欠片と、夜を閉じ込めたような小瓶だった。王冠の欠片は、身につけた者が一日に一度だけ、致命傷を受ける運命をわずかにずらす。小瓶には希少な治癒薬が入っていた。 洋太は薬を飲み、手帳に記した。 「ネームド討伐。勝因は、天井の鎖の劣化と鉄灯の重量と、私の手が滑ったこと。どれか一つ欠けていたら負けていた。奇跡の記録として、かなり良い」 彼女はそのとき、まだ知らなかった。 塔は、偶然だけでは説明できないものを、ずっと上の階に用意している。 第四章 上がるほど、帰れなくなる 五百階を越えると、ボスの姿は人の理解から少しずつ離れていった。 五百十二階では、音を食べる巨大な蛾が現れた。五百八十階では、戦場そのものを巻き戻す甲虫が現れた。六百階台では、名前を聞いた者の記憶から自分の姿を消す魔物が出た。 強敵との戦いでは、洋太の不幸もまた深くなった。出口の扉が閉じる。武器が折れる。味方はいない。受けた傷のせいで呼吸ができなくなる。勝利が遠のくたびに、塔はさらに不利な条件を重ねてくるようだった。 だが、十階層ごとのポータルだけは変わらず開いた。 六百九十階のポータルの前で、洋太は初めて長いあいだ動けなかった。外の空気が、青い円の向こうに揺れている。帰れば、普通の高校生に戻れる。オタク部の部室で、集めた奇跡の話を仲間に聞かせられる。 彼女は、手帳を胸に抱いた。 「ここまでの記録を、私だけのものにしないで持ち帰る。それも大事。でも、ここで帰ったら、次の階の記録は誰も知らないままになる」 その言葉が立派だったのか、ただ意地を張っただけなのか、洋太自身にもわからなかった。 ポータルを背に、彼女は階段を上った。 第五章 七百三十一階の黒い星 七百三十一階の扉は、内側から開いた。 部屋の中心には、黒い鱗を持つ竜が伏せていた。背には星空に似た光が散り、翼の縁からは光そのものが削り取られている。竜が息を吐くたび、部屋の灯りが一つずつ消えていった。 頭上に、名が浮かぶ。 ```text 【星喰らい】《黒冠竜》ヴァルグ=ノクス ``` ヴァルグ=ノクスは、遠い神話で夜空を呑み込んだと語られる竜だった。伝説の存在が、なぜ塔の一階層のボスとして現れるのか。洋太にはわからない。ただ、その爪が床へ触れた瞬間、石の色が失われ、空間の端が黒く欠けた。 「うわ……神話級。これ、絶対に記録したい」 彼女は手帳を開いた。 その一瞬、竜が動いた。 爪は彼女を狙ったのではない。部屋の空間そのものを裂き、逃げ道も立つ場所も、存在したという事実ごと消そうとした。洋太は足を取られ、床へ倒れた。手帳が飛び、ページが散る。黒い風に押し流され、壁へ叩きつけられた。 骨がきしんだ。 ヴァルグ=ノクスの尾が、床を払う。洋太の逃げた先を正確に塞ぎ、翼から生まれた重力が彼女を石へ縫いつけた。彼女の体は、息を吸うことさえ許されないほど押し潰されていく。 竜は、勝利を確信しているようだった。 その確信は正しかった。 少なくとも、そこまでのあらゆる計算においては。 洋太の視界が暗くなる。右手は動かず、左足の感覚も薄れていく。手帳の最後のページが、床の上で黒く燃えた。ここで死ぬ。ここで記録は途切れる。塔の外へ帰ることも、続きを書くこともない。 不幸は、すでに十分すぎるほど積み重なっていた。 それでも、彼女の胸の奥には、ひとつだけ残っていた。 「まだ……最後の記録を書いてない」 声にならなかった。だが、奇跡は聞いた。 【奇跡】が起きた。 ヴァルグ=ノクスの力は正常に発動した。権能は空間を裂き、黒い重力は洋太を押さえつけ、星を食べる息は部屋の光を呑み込んだ。それらは一つも無効化されなかった。 ただ、結果だけが逸れた。 空間を裂いた一撃は、洋太の体を避けて背後の壁へ走った。重力は彼女を押さえつけたまま、床の亀裂だけを深く広げた。黒い息は手帳を焼き尽くしたはずだったが、最後の一枚だけが炎の外へ滑り出ていた。 壁の亀裂の奥から、古い鎖が姿を現す。 それは塔の構造を支える巨大な鎖だった。鎖の輪には、七百三十一階の標識と同じ刻印があった。ヴァルグ=ノクスが翼を広げた衝撃で、鎖の留め具が外れる。 落ちてきた鎖は竜の左翼へ絡みついた。 黒冠竜が咆哮する。鎖は砕けない。竜は力を振るい、神話に刻まれた権能で鎖の存在を消そうとした。鎖の一部は消えた。だが、消えた部分の向こう側で、別の輪が偶然にも竜の喉へ回り込んでいた。 洋太は、折れた腕を抱えて立ち上がった。 床には、ミュルグから得た王冠の欠片が転がっている。致命傷をずらす、ただ一度の守り。彼女はそれを拾い、竜の爪が振り下ろされる瞬間に身につけた。 爪は彼女の胸を裂いた。 だが、王冠の欠片がその運命をわずかにずらした。爪先は制服と皮膚を深く裂きながら、心臓から指一本分だけ外れた。 洋太は倒れなかった。 「それ、奇跡じゃないよ。ネームドのドロップ。前の階の記録が、今ここにつながった」 彼女は落ちていた手帳の最後のページをつかんだ。ページの端には、塔の入口で拾った標識片が貼られている。七百三十一の数字が、黒い光を受けて浮かび上がった。 黒冠竜が、最後の力で翼を打つ。 鎖の輪が締まった。翼が床へ縫い止められる。竜の喉元が露わになった。洋太は手帳の金具を外し、それを手の中で握った。 武器ではない。刃もない。けれど、金具の角は鋭く尖っていた。 彼女は一歩踏み出した。 その足元で床が崩れた。体が傾く。金具が手からすべり落ちる。勝ち筋は、また遠ざかった。 だが、金具は床の亀裂を転がり、亀裂の斜面を滑り、跳ね上がった。 黒冠竜の喉元へ。 金具の角が、鱗のわずかな隙間に突き刺さった。 それだけでは、竜を倒すには足りない。ヴァルグ=ノクスは身をよじり、鎖を引きちぎろうとした。黒い光が傷口から噴き出し、金具を呑み込む。竜の力が、傷をなかったことにしようとする。 奇跡は、その力を止めなかった。 ただ、傷を消す結果だけを逸らした。 金具は残った。 竜の喉の傷から、星の光がこぼれ落ちる。黒冠竜はもう一度、咆哮しようとした。だが声は出ず、光だけが漏れた。巨体がゆっくりと床へ沈む。 七百三十一階のボスは、敗北した。 洋太は、しばらくその場に座り込んでいた。勝ったという実感よりも、手帳のページが一枚だけ残っていることのほうが気になった。 「最終記録。相手は神話級。私の勝利。勝因は、鎖、王冠の欠片、金具、床の亀裂。それと、ここまで不幸だったこと」 彼女は息を整え、最後に書き加えた。 「奇跡は、無傷で勝たせてくれる力じゃない。終わらないために、ありえない道をひとつだけ残す力」 第六章 塔はまだ続く 黒冠竜の亡骸から、二つの品がドロップした。 ひとつは、《星蝕の黒鱗》。掌ほどの大きさの黒い鱗で、表面には消えた星のような光が浮かぶ。身につけると、一日に一度だけ、魔法や呪いによる致命的な影響を一拍だけ遅らせる。効果が終わると鱗の光は弱まり、次の夜明けまで回復しない。 もうひとつは、伝説級の希少品、《夜空の残片》。小さな黒い結晶の中に、かつて竜が呑み込んだ星の光が封じられている。暗闇で周囲を照らすのではなく、暗闇の中にある「隠されたもの」を輪郭として浮かび上がらせる。使うたびに持ち主の大切な記憶を一つ差し出す危険があるため、洋太は「使い方は要検討」と手帳に記した。 その階にポータルはなかった。帰還できるのは十階層ごとの階だけであり、七百三十一階から直接地上へ戻る道はない。 だが、洋太は帰還不能を恐れなかった。彼女はボスを倒し、記録を書き終えた。塔はそれ以上を要求しなかった。 少なくとも、その日の彼女には、次の階段を上る理由がなかった。 七百三十一階の標識の下には、上へ続く階段がまだ伸びていた。塔は終わっていない。七百三十二階にも、その先にも、別のボスが待っている。やがて、彼女の力では勝つことのできない相手が現れるだろう。 塔そのものを踏破する日は来ない。 それでも、記録には終わりがある。 洋太は、傷だらけの手帳を胸に抱き、七百三十一階の階段を降り始めた。十階層ごとに開くポータルを目指して。 結果 - 最終到達階層:731階 - その階層のボス:【星喰らい】《黒冠竜》ヴァルグ=ノクス――勝利 - 地上からの高さ:約1,842.6 km(参考:国際宇宙ステーションの軌道高度はおよそ400 km。数値は各階層の高さを積算した記録上の推定値) - 塔の制覇・完全踏破:未達。塔はなお上へ続く 最高到達階層: 731階※勝利 地上からの距離: 約1,842.6㎞※参考:国際宇宙ステーションの軌道高度約400㎞の約4.6倍 特別報酬: 《星蝕の黒鱗》および《夜空の残片》。加えて、七百三十一階到達とネームドモンスター討伐に対する報奨金 731,000,000円。 参加者の感想:「神話級のボスに勝った記録が取れた! でも次は、帰還ポータルのある階でちゃんと帰る。……たぶん。手帳が無事なら、いくらでも続きを書けるから」