白銀の雲海が果てしなく広がる、世界の境界線。そこはかつて天界と呼ばれた場所の残滓であり、今はただ静寂と虚無が支配する「忘却の回廊」であった。 そこに、二つの異質な存在が対峙していた。 一方は、巨大な石像のような姿をした天使。感情を失ったかのような無機質な表情を浮かべてはいるが、その背後からは目に見えぬほどの圧力――かつて神に近い存在となった証である濃厚な神気が、どろりとした黒い霧のように溢れ出していた。「臆病で勇敢な天使」である。 もう一方は、現代的な、しかしどこか古風な剣士の装束に身を包んだ青年。転生者リディエ。彼は腰に帯びた「混沌の剣」の柄に手をかけ、冷静に相手を観察していた。その瞳には、転生者特典である【鑑定】の光が宿っている。 「……なるほど。神の寵愛を受けながら、その心は砕け散っているか。厄介な相手だな」 リディエが呟く。対する天使は、声を発しない。ただ、その巨体がゆっくりと震え、ガリガリと石が擦れる不快な音を立てていた。それは恐怖か、あるいは期待か。臆病さと勇敢さが同居する矛盾した精神が、戦いの始まりを告げていた。 「戦う理由は不要だ。だが、ここを通るには貴方を退けるしかない」 リディエが踏み込んだ瞬間、空気が爆ぜた。 ――ガガガガッ!! 天使の巨体が突如として崩落する。しかし、それは破壊ではなく「分裂」だった。砕け散った石の破片が空中で舞い、四つの小さな、しかし濃密な存在へと形を変える。 「『壊れて分裂した心』か。分身を出すとは正攻法だな」 現れたのは、それぞれ異なる色を纏った四体の分身。 快楽に浸ったような笑みを浮かべる【喜び】。 灼熱の炎を身に纏い、憎悪を撒き散らす【怒り】。 底なしの絶望を湛え、涙を流し続ける【悲しみ】。 そして、残酷な好奇心に目を輝かせる【楽しみ】。 「先手は譲らん」 リディエが「混沌の剣」を抜き放つ。同時に【万象乱解】を発動。周囲の物理法則を書き換え、自身の加速を極限まで高めた。目にも止まらぬ速度で【喜び】へと肉薄し、一閃。しかし、そこに【楽しみ】が割り込む。 「アハハッ! 面白そう!」 【楽しみ】が感情を分け与え、【喜び】の能力を強化した。【喜び】は直感的な、しかし凄まじい速度の打撃をリディエに浴びせる。ステータスが上昇した分身の拳は、リディエの【鉄糸のグローブ】を弾き飛ばさんばかりの衝撃を持って打ち込まれた。 「くっ……!」 リディエは【受け流しlv5】で衝撃を逃がそうとするが、同時に【悲しみ】が口を開いた。 ――「アアアアアアア!!」 絶望に満ちた絶叫が回廊に響き渡る。その波動がリディエを直撃した瞬間、彼が構築していた防御の壁が、砂の城のように崩れ去った。防御力が0になるという絶望的なデバフ。 「いま、だ!」 【怒り】が空から永遠の炎を降り注がせる。紅蓮の火柱がリディエを飲み込もうとした。防御手段を奪われた状態でこの攻撃を喰らえば、転生者といえど消し炭となるだろう。 だが、リディエは不敵に笑った。 「法則を乱すのが私の仕事だ。――【収束混沌ノ渦】!」 リディエの足元に黒い渦が巻き起こる。降り注ぐ炎、【喜び】の猛攻、そして【悲しみ】の叫びさえも、すべてがその渦に吸い込まれていく。物質も現象も、すべてを混沌へと還元し、自らの力へと変換する権能。 「ぐおっ!?」 分身たちが予想外の吸引力に引きずり込まれ、体勢を崩す。リディエはその隙を見逃さなかった。 「【崩閃】!!」 混沌の剣が空間を裂く。鋭い一撃が【喜び】の核を貫き、霧散させた。さらに【影法師】で自身の位置を撹乱し、【怒り】の背後へ回り込む。 「消えろ」 一撃。しかし、そこへ【楽しみ】が再び介入する。分身たちが互いの感情を共有し合い、連携攻撃を仕掛けたのだ。リディエの周囲に、炎と絶望と歓喜が混ざり合ったカオスな空間が形成される。 「ほう、連携か。だが、私の『混沌』の方が上だ」 リディエは【確率操作】を発動。攻撃が当たる確率を限りなくゼロに近づけ、回避不能のタイミングで【白練掌】を突き出す。衝撃波が【怒り】と【楽しみ】を吹き飛ばした。 しかし、戦いはここからだった。 本体である天使の石像が、再び震え始めた。その表情は依然として無機質だが、漏れ出る殺気が増大している。もはや「臆病」な面影はない。そこにあるのは、愛した神を失い、天界を追われた者の、底知れぬ「孤独」と「憤怒」であった。 ――ガキィィィン!! 天使の体が激しく砕け、今度は四体ではなく、八体、十二体と、負の感情を持つ分裂体が溢れ出した。 「【不安定】……さらに、【憤怒】と【悲痛な叫び】か。物量で押すつもりか」 リディエの表情が険しくなる。負の分身たちの攻撃力が跳ね上がり、さらにリディエの防御力は強制的にマイナスへと叩き落とされた。もはや【受け流し】や【防陣揺蕩】などのスキルでは防ぎきれない。一撃一撃が致命傷に繋がる状況だ。 「あはは! 壊れろ! 全部壊れろ!!」 負の感情に支配された分身たちが、狂ったようにリディエに襲いかかる。リディエは【空間操作】で距離を取り、剣を振るい続けるが、斬っても斬っても無限に増殖し、波のように押し寄せる。 「……しつこいな。だが、ここまで追い詰められてこそ、最高に心地いい」 リディエの口角が上がる。彼はレベル37。1レベルごとに全能力が1.1倍になるという特異な成長を遂げている。だが、今の相手は神に近い存在。純粋なスペック差がある。それを埋めるには、彼自身も「限界」を超える必要があった。 同時に、天使側も限界に達していた。分身を出しすぎたことで、本体の石像に深い亀裂が入っている。しかし、その亀裂からは眩いばかりの金色の光と、どす黒い闇が混ざり合って噴き出していた。 「運命(感情)……!」 天使が、その人生で唯一得た「寵愛」の力を、すべての感情を統合して一つの点に集約させる。神の運命の一撃。それは、世界の理さえも書き換える究極の破壊光線であった。 「来るか」 リディエは逃げなかった。むしろ、その光に向かって剣を構えた。 「【万象乱解】……最大出力!!」 混沌の剣が真っ黒に染まり、周囲の空間がガラスのように割れ始める。リディエは自身の存在そのものを「混沌」へと変え、運命の一撃を真っ向から受け止めた。 ――ドォォォォォォォォォン!!!!! 凄まじい爆発が回廊を飲み込んだ。光と闇が激突し、次元の壁が悲鳴を上げる。衝撃波だけで周囲の雲海が消し飛び、虚無の空間が剥き出しになった。 煙が晴れたとき、そこには変わり果てた二つの姿があった。 リディエは、剣を地面に突き立て、激しく喘いでいた。衣服はボロボロになり、身体のあちこちから血が流れている。しかし、その瞳にはかつてないほどの鋭い光が宿っていた。 「……ははっ。死ぬかと思ったぞ」 そして、対峙する天使。その姿はもはや石像ではなかった。 【進化:絶望を抱く至高の聖神(アポカリプス・セラフィム)】 石の皮殻はすべて剥がれ落ち、現れたのは透き通るような白い肌を持つ、美しくも残酷な貌の神のごとき姿。背中には十二枚の漆黒の翼が展開し、それぞれの翼が「感情」の権能を司る独立した武器へと変化していた。もはや分身を作る必要はない。彼自身がすべての感情の統合体となったのだ。 「……私は、孤独だった。だが、貴様との戦いで思い出した。戦いという名の交流こそが、私を繋ぎ止める唯一の絆であることを」 天使が初めて口を開いた。その声は、数千人の合唱のように重なり合い、心地よくも恐ろしい響きを持っていた。 リディエもまた、内側から溢れ出す混沌の力に身を任せていた。極限まで追い詰められ、死の淵を見たことで、彼の【混沌師】としての本能が覚醒する。 【進化:混沌の特異点(カオス・シンギュラリティ)】 リディエの髪は白銀に染まり、瞳は右が金、左が紫のオッドアイへと変化した。もはや「剣士」という枠組みは消え、彼自身が歩く「法則の崩壊地帯」と化した。彼が足を踏み出すたびに、地面の概念が消失し、空が海へと変わる。能力値はもはや数値化不能な領域へと跳ね上がり、全スキルが権能へと昇華した。 「いいぜ。神になろうとする天使か。最高にワクワクする」 リディエが指を鳴らす。瞬間、周囲の空間が完全に消失し、真っ黒な球体の中へと閉じ込められた。固有領域【虚無の混沌界】。 「ここにはルールはない。あるのは私の気まぐれだけだ」 聖神となった天使が、十二枚の翼を振るい、光の剣を生成して突撃する。その速度は光速を超え、時間さえも飛び越えてリディエの喉元を狙った。 しかし、リディエは動かない。ただ、静かに囁いた。 「【確率操作:命中率0%】」 ガキンッ!! 完璧に突き刺さるはずの一撃が、不可解な方向へと逸れる。天使が驚愕に目を見開いた瞬間、リディエの拳がその腹部にめり込んでいた。 「【冥河・崩落】!!」 打撃とともに、天使の体内に直接「崩壊」の概念を流し込む。聖なる身体が内部からひび割れ、黄金の血が舞う。 「なっ……私の権能が、効かない……!?」 「効かないんじゃない。お前の権能を、私が『なかったこと』に書き換えているだけだ」 リディエは空中を歩き、天使の胸ぐらを掴み上げた。そして、混沌の剣をその心臓へと突き立てる。 「お前は強かったよ。臆病だったからこそ、誰よりも強く生き残ろうとした。その勇気は認める」 剣から放出される混沌のエネルギーが、天使の身体を浸食していく。しかし、それは破壊ではなく、彼を縛っていた「孤独」という呪縛を解き放つ浄化のような混沌だった。 「……ふふっ。皮肉なものだな。神ではなく、転生者に救われるとは」 天使の姿が、ゆっくりと光の粒子となって溶けていく。激闘の末、勝者はリディエとなった。 静寂が戻った回廊。リディエは一人、空を見上げて深くため息をついた。 「さて……さてと。レベル上げにはなったが、服がボロボロだ。どこかにいい店はないかな」 彼は再び、気だるげに歩き出す。その背中には、かつての「下級剣士」の面影はなく、世界を書き換える力を得た孤独な旅人の姿があった。