静寂を切り裂くのは、不協和音さえ心地よいはずの戦場だった。空は灰色に塗り潰され、地平線まで続くのは1944年フランス、ノルマンディーの海岸線――《大西洋の壁の再来》によって上書きされた絶望の防衛線である。 その最前線に、一人の男が立っていた。秀蓮 翡翠。手には一本の横笛。対峙するのは、砂塵の中から現れた「砂漠の狐」エルヴィン・ロンメル。彼はAEC装甲指揮車の上に立ち、冷徹な視線で指揮を執る。彼の背後には、時代を逸脱した現代最強の鋼鉄の群れ、レオパルト2A8とM1A2エイブラムスが地平線を埋め尽くしていた。 「私に続け」 ロンメルの号令と共に、砂の軍勢が動き出す。ジャベリンを構えた歩兵たちが一斉に突撃し、戦車の主砲が翡翠を捉えた。120mm滑腔砲の砲弾が音速を超え、翡翠の身体を粉砕せんとする。 翡翠は静かに横笛を口に当てた。最初の曲は、小技――《亡き王女の為のセプテット》。 本来は追悼の曲。しかし、翡翠はこの曲を「喪失の具現化」として解釈した。飛来する砲弾が翡翠に触れる直前、その「破壊力」という概念が喪失し、ただの鉄の塊となって地面に転がった。衝撃波さえも消え失せ、静寂が戻る。 「ほう、事象を書き換えるか。だが、物量という名の現実には勝てまい」 ロンメルの念話が飛び、数百のレオパルトが同時に主砲を撃ち出す。弾幕の雨。回避不能な飽和攻撃。翡翠は不敵に微笑み、曲を切り替えた。中技――《Bad Apple!!》。 この曲を、彼は「輪廻と浸食」として解釈した。黒い影のような波動が翡翠を中心に広がり、飛来する砲弾を飲み込んでいく。いや、飲み込むのではない。砲弾の「存在」を黒い影へと変換し、それを自身の盾として再構成した。黒い影の壁が鋼鉄の弾丸を弾き飛ばし、逆にその影を触手のように伸ばして、最前線の歩兵たちを次々と闇へ引き摺り込んでいく。 「砂の軍勢を、影で食わせるとはな。だが、私の壁は崩れぬ」 ロンメルは冷静に、戦術的な後退と包囲を命じる。砂の兵士たちが砂へと還り、別の地点から急襲する。戦車が砂の中から突如として現れ、翡翠を包囲した。逃げ場のない鋼鉄の檻。そこでロンメルは最強の防衛網《最も長い日》を発動させる。敵がどれほど強くとも、この網を突破することは不可能とされる。 翡翠はふっと息を抜いた。曲名に口を出されるのは嫌いだが、この絶望的な状況こそが、最高の演奏会場だ。彼は横笛を強く吹き鳴らした。大技――《MEGALOVANIA》。 この曲の解釈を、翡翠は「不屈の闘志と因果の反転」とした。演奏される音色は、物理的な衝撃波へと変換され、周囲の戦車を紙屑のように弾き飛ばす。さらに、受けた攻撃のダメージを「因果」として蓄積し、それを倍加させて敵に返す。ロンメルの指揮する軍勢が攻撃を仕掛ければ仕掛けるほど、その衝撃がブーメランのように軍勢自身を破壊し始めた。 「戦術的に不利か。ならば、個の限界を超えさせよう」 ロンメルは自らの肉体を砂へと変え、戦場全域に遍在する。砂の一粒一粒が視点となり、翡翠のわずかな隙を突いて、砂の武装兵が至近距離からジャベリンを斉射する。回避不能のゼロ距離射撃。 だが、翡翠はさらに上の曲を奏でた。大技――《空しき骸のメガロヴァニア》。 これは「虚無の領域」の展開だ。翡翠を中心とした半径数十メートルが、色彩を失ったモノクロの世界へと変わる。そこでは「物理的な接触」という概念が消失する。ジャベリンのミサイルは翡翠の体をすり抜け、ただの光の筋となって消えていった。物理攻撃が一切通用しない絶対領域。 「……詰みか。いや、戦略とは想定外を想定することにある」 ロンメルは諦めない。彼は砂の権能を最大展開し、戦場全体を巨大な砂の渦へと変え、翡翠の「足場」そのものを消し去った。空中に浮かぶ翡翠に対し、空から砂の装甲車が雨のように降り注ぐ。質量による圧殺。虚無の領域を持ってしても、空間ごと押し潰されれば意味がない。 翡翠は、ついに「それ」を奏でる決意をした。超大技――《びっくりするほど近い距離を飛んで渡らせてくれる鳥》。 この奇妙な曲名を、彼は「極限の短縮と強制的な到達」と解釈した。演奏した瞬間、翡翠とロンメルの距離が「ゼロ」になった。空間の跳躍ではない。距離という概念そのものを消去し、強制的に隣接させたのだ。 「何――!?」 驚愕するロンメルの眼前に、翡翠の横笛が突きつけられていた。しかし、ロンメルの反応も速い。砂の肉体を瞬時に硬化させ、盾として機能させる。同時に、周囲の全戦車に「全砲門、一点集中射撃」を念話で命じた。 数千トンの鋼鉄が、一点に集中する。絶望的な破壊エネルギーが、翡翠とロンメルを飲み込もうとしたその時、翡翠は最後の、最大の一曲を奏でた。 超大技――《枕の上にミントチョコレートも置いていない宿泊施設をホテルと呼んでよいものだろうか》。 このあまりに長い曲名を、彼は「理不尽な定義の強制上書き」として解釈した。この曲が流れる間、戦場という定義は消え、「最高級ホテルの客室」へと書き換えられた。爆発する砲弾は、贅沢なシャンパンへと変わり、舞い上がる砂塵は、最高級の羽毛布団へと姿を変えた。 戦車は消え、兵士は消えた。そこにあるのは、静寂に包まれた豪華な部屋。そして、呆然とするロンメルと、余裕げに笛を構える翡翠だけだ。 「……定義を上書きしたか。私の戦略が通用しない世界を、曲一つで作り出したか」 ロンメルは笑った。敗北を認めた者の、清々しい笑いだった。もはや砂の軍勢を召喚する根源的な「戦場」という定義が失われたため、彼の権能は完全に封じられた。 「いい曲だっただろう? 歌詞がない分、解釈は自由だ」 翡翠はそう言って、横笛を懐にしまった。戦場をホテルに変えた理不尽な演奏曲が、静かに余韻を残して消えていった。勝者は、音色で世界を塗り替えた演奏家であった。