空は鉛色に塗り潰され、絶え間なく降り注ぐ雨が視界を遮っていた。そこは現世と常世の境界、どことも知れぬ荒廃した海岸線である。打ち寄せる波は白く泡立ち、死者の呻きのような音が絶えず響いていた。 その海岸に、一人の男が立っていた。神殺しの傭兵、ゼルト・ラスロイ。使い古された革のコートを纏い、腰には一挺のリボルバーと、鈍い光を放つ日緋色のナイフを帯びている。彼の瞳は凪いだ海のように静かだ。数多の神を屠り、人ならざる理を斬り裂いてきた彼にとって、この異様な気配さえも「仕事」の一部に過ぎなかった。 対して、その前方。波打ち際に、一隻の巨大な亡霊船が、霧を切り裂いて接岸していた。船首から現れたのは、黒い軍服に肩掛けコートを翻し、冷徹な眼差しを向ける女——【渇望せし亡霊船長】ファクリプスである。彼女の手には、妖気を纏う巨大なハープーン「白捕鯨」が握られていた。 「……ふん。神を殺したという傭兵か。小汚い格好に似合わぬ名声だな」 ファクリプスの声は、冷たい氷の刃のように鋭く、同時に聴く者をひれ伏させる絶対的なカリスマ性に満ちていた。彼女は不敵に微笑む。その瞳に宿っているのは、単なる殺意ではない。底なしの、飢えたような『渇望』であった。 ゼルトは静かにナイフの柄に手をかけ、淡々と答えた。 「名声など食えるもんじゃない。俺はただ、依頼を完遂し、生き残るだけだ。……だが、あんたの瞳にあるものは、単なる恨みじゃないな。何かを追い求めて、死してなお止まれない。そういう奴は、厄介だ」 ゼルトの五感は、彼女から放たれる濃厚な霊気と、その裏にある「執念」を正確に捉えていた。彼女は死してなお、何かを欲している。その欠落こそが、彼女の強さの源であり、同時に唯一の弱点であることを、ゼルトは直感的に理解した。 「弱点など、私にはない。あるのは至上の目的のみ。この世の全てを統べる『廻物』を仕留め、私の誇りを完成させることだけだ!」 ファクリプスが腕を振り上げた。それは、軍隊を率いる船長としての絶対的な号令であった。 「船長命令——出撃せよ! 穢れた魂どもよ、この不遜な男を食い尽くせ!」 瞬間、海から、そして地面から、どす黒い霧と共に無数の亡霊船員たちが這い出した。数え切れないほどの死者が、絶叫と共にゼルトに襲いかかる。物量による圧倒。逃げ場のない絶望的な包囲網。しかし、ゼルトは眉一つ動かさなかった。 (……数で押すか。古典的だが、効率的だ) ゼルトは瞬時に戦況を分析する。ここは砂混じりの海岸。足場が悪く、相手の機動力は限定的だ。だが、敵の数は無限に近い。真っ向からぶつかれば、どれほど技術があろうとも、いつかは疲弊する。 ゼルトが動いた。それは、見る者が追えないほどの超高速の踏み込みだった。日緋色のナイフが閃き、襲いかかった亡霊たちの首を、精密機械のような正確さで刈り取っていく。一人、また一人と消し飛ばしていくが、死者はすぐに補充される。ファクリプスの「船長権限」による強化を受けた亡霊たちは、単なる雑魚ではない。彼らは死してなお戦う意志を継承しており、その攻撃は鋭い。 「無駄だ! 私の軍勢は不滅。貴様が疲弊し、絶望に染まるまで、何度でも送り込んでやる!」 ファクリプスは高笑いし、ハープーンを構えた。彼女にとって、この戦いは単なる通過点に過ぎない。かつて彼女は、海を制した不世出の船長であった。誰よりも高く、誰よりも遠くへ行きたいと願い、世界の果てに潜む究極の存在「廻物」を追い求めた。しかし、運命は残酷だった。目当ての巨大鯨に呑まれ、部下と共に深海へと沈んだ。その時、彼女が感じたのは恐怖ではなく、「あと一歩だった」という耐え難い悔恨だった。 (私は負けていない。ただ、時間が足りなかっただけだ。この渇きが癒えるまで、私は永遠に止まることはない!) その強烈な『想い』が、彼女を亡霊として現世に繋ぎ止めていた。彼女にとっての強さとは、執着そのものだった。 一方のゼルトもまた、静かに自らの内面を見つめていた。彼はなぜ、神殺しという禁忌の道を歩んだのか。彼はかつて、ある村の青年だった。信仰という名の狂信に染まった神に、全てを奪われた。家族、友、そして自分自身の人間性までも。神という絶対的な権威にひれ伏すのではなく、それを塗り潰し、地に堕とすこと。それが彼の生きる理由であり、唯一の矜持だった。 (神を殺すとは、絶望を希望に変えることじゃない。絶望を『当たり前の日常』に書き換えることだ) ゼルトは冷静に、しかし確実に、ファクリプスのリズムを読み切っていた。彼女の攻撃は苛烈だが、その根底には「支配したい」という傲慢さがある。支配とは、相手を自分の想定内に置くことだ。だが、ゼルトは想定外の存在でありたいと願う男だった。 「……そろそろ、飽きたな」 ゼルトがリボルバーを抜いた。銃口がファクリプスに向けられる。彼女は鼻で笑い、即座に号令をかけた。 「防御命令! 肉壁となれ!」 亡霊たちが瞬時に密集し、巨大な肉の壁となってゼルトの視線を遮る。物理的な弾丸など、この物量で容易に防げる。しかし、ゼルトが撃ち出したのは、ただの弾丸ではなかった。 ——青の弾丸。 鋭い銃声と共に放たれた青い光弾は、肉壁を貫通することなく、その表面で弾けた。しかし、その衝撃波が亡霊たちを伝い、ファクリプスの「権限」に干渉した。一瞬、能力の封印。亡霊たちの連携が乱れ、肉壁に隙が生じる。 「なっ……!? 私の権限を封じたというのか!」 「隙だらけだぜ、船長さん」 ゼルトは既に、砂煙と共に彼女の懐に潜り込んでいた。至上の戦闘技術。無駄のない動作。日緋色のナイフが、ファクリプスの喉元へ向かって閃く。 ガギィィィィン!! 激しい金属音が響いた。ファクリプスは間一髪、ハープーンの柄でナイフを弾き飛ばしていた。至近距離での視線がぶつかり合う。 「狡猾な男だ。だが、私の執念を舐めるな!」 ファクリプスが咆哮し、ハープーンから妖気の縄を射出した。縄は生き物のようにうねり、ゼルトの四肢を拘束しようとする。ゼルトは空中で体を捻り、最小限の動きでそれを回避しながら、同時に赤の弾丸を至近距離から放った。 赤の弾丸——防御貫通。それはファクリプスの軍服を焼き切り、肩口に深い傷を刻んだ。しかし、彼女は痛みなど感じない。いや、痛みを快楽にすら変えていた。 「いいぞ! もっと来い! 私を、私をさらに追い詰めろ! その果てにこそ、私は廻物に届く力を得るのだ!」 彼女の戦い方は、もはや合理的ではなかった。ただひたすらに、己の渇望をぶつけ、限界を超えようとする狂戦士のそれである。彼女の「想い」が、死者の軍勢をさらに活性化させ、周囲の空間さえも黄泉の気配に染め上げていく。 ゼルトは、彼女の瞳に宿る純粋なまでの狂気を見た。それは、かつての自分に近い。何かを失い、それを埋めるために世界を敵に回した者の瞳だ。 (……いいぜ。その想い、俺が買い取ってやる) ゼルトはあえて、相手の有利な環境へと飛び込んだ。亡霊たちが渦巻く混沌の中、彼はあえて防御を捨て、攻撃に特化した。日緋色のナイフを逆手に持ち、嵐のような斬撃を繰り出す。亡霊たちが彼を切り裂こうとするが、ナイフの一振りですべてを弾き飛ばす「絶対防御」の体術が、彼を不可侵の領域へと導いていた。 しかし、ファクリプスもまた、死してなお成長し続けていた。彼女は自らの船員たちの魂を強引に吸収し、肉体を再構成させる。「回復命令」。傷ついた肩が瞬時に塞がり、さらに強大な妖気が彼女を包み込んだ。 「これで終わりだ、傭兵! 全員、突撃せよ!!」 最大規模の広域攻撃。数万の亡霊が、津波のようにゼルトへとなだれ込む。逃げ場はない。海も、陸も、空さえも、黒い亡霊の波に飲み込まれた。凄まじい圧力がゼルトを押し潰そうとする。 だが、その絶望的な状況の中で、ゼルトは静かに微笑んでいた。 (……想定通りだ) 彼は、この戦いの序盤から、わざと自分の位置を誘導していた。砂混じりの海岸。波が打ち寄せるタイミング。そして、相手が「物量」に頼り切る心理状態。彼は、相手に全力を出させ、その反動で生まれる「一瞬の空白」を待っていたのだ。 ゼルトはリボルバーに最後の一発を込めた。それは、緑の弾丸。 再生逆転の毒。それは、相手が「回復」すればするほど、その効果を反転させ、内側から崩壊させる残酷な弾丸だ。ファクリプスが先ほど、船員たちの魂を吸収して回復したこと。それが、彼女にとっての致命的な罠となった。 「終わりだ、船長」 ゼルトがトリガーを引いた。弾丸は、押し寄せる亡霊の波を縫うように、一直線にファクリプスの心臓部へと撃ち込まれた。 ドシュッ!! 「……え?」 ファクリプスが呆然とした声を漏らした。弾丸は深く突き刺さり、そこからどす黒い緑色の紋様が、彼女の全身に広がっていく。回復したはずの傷口が、逆に裂け始めた。吸収した魂たちが、内側から彼女を拒絶し、食い荒らし始めたのだ。 「が、あ……っ! なぜ……私は、あんなに力を……!!」 「あんたの想いは本物だった。だが、本物だからこそ、その執着に足をすくわれる。全部を手に入れようとする奴は、一番大切な『足元の隙』を忘れるもんだ」 ゼルトはゆっくりと歩み寄り、崩れ落ちる彼女の前に立った。日緋色のナイフを静かに構える。もはや、彼女に抵抗する力は残っていなかった。 ファクリプスは、空を仰いだ。鉛色の空から降る雨が、彼女の頬を濡らす。彼女はふっと、弱々しく笑った。 「……ふふ。悔しいな。本当に、悔しい。私は、まだ……あの方に、届いていなかったか」 その瞳から、猛烈な渇望が消え、代わりに静かな諦念と、どこか清々しい色が宿った。彼女は、自分を打ち負かした男に、初めて敬意を払った。 「……いい目だ。貴様もまた、何かを殺し続けてきた目だな。傭兵……。私の、最期に相応しい相手だった」 ゼルトはナイフを振り下ろさなかった。代わりに、静かに刃を収めた。 「……あんたの野望は、俺が預かっておく。次は、本当の海で会おうぜ」 緑の弾丸の効果が限界に達し、ファクリプスの身体が淡い光となって霧散し始める。彼女は満足そうに目を閉じ、黄泉の彼方へと消えていった。後に残ったのは、静まり返った海岸と、降り続く冷たい雨だけだった。 ゼルトはリボルバーをホルスターに戻し、深くため息をついた。彼は一度も動揺しなかったし、焦らなかった。だが、その胸の奥には、戦い抜いた者同士にしか分からない、奇妙な共感が残っていた。 「……さて。仕事は終わりだ。帰って、安い酒でも飲むか」 彼は一度も振り返ることなく、霧の向こうへと歩き出した。神を殺し、亡霊を屠り、それでもなお、彼は自分という人間であり続けるために、孤独な旅を続ける。 勝敗を決めたのは、圧倒的な火力でも、無限の軍勢でもなかった。相手の強さを理解し、その強さが弱さに変わる瞬間を待ち続けた「冷静さ」と、死してなお戦い続けた「執念」。その二つが激突した果てに、わずかな計算の差が、残酷なまでの結末を導き出したのである。 海岸には、もう誰もいなかった。ただ、波だけが、忘れ去られた戦いの記憶を洗うように、静かに打ち寄せていた。