東洋の深い山々に抱かれた、忘れ去られたような静寂の地。そこに、歴史の重みを感じさせる小さな老舗旅館「栄愛之湯(えあいのゆ)」はひっそりと佇んでいた。紅葉が燃えるように山を彩り、冷涼な空気が心地よい季節である。 この静謐な地に、およそ風景に馴染まない集団が訪れようとしていた。グレイスバーインダストリーズの超次元管理部門に属する四人の精霊たちだ。 「はえ~? ここが噂の秘湯ですか。理の構成が非常にアナログで趣がありますね」 アクア色のベレー帽を被ったスクエア・ソウルが、オーブ形態からふわりと実体化し、白衣を翻して呟く。 「ぱう~? 空気がしっとりしてて、なんだか眠くなってきちゃいましたぁ」 青黒い軍帽を被ったオーバル・ネイも同様に、ふわふわとした足取りで隣に現れた。 一方、赤黒いマントを翻し、純白のノンラーを被ったアーチ・トーチは、周囲の険しい地形に目を輝かせている。 「おぉ~! この登山口の急勾配、いいトレーニングになるな! 誰か強い奴が潜んでいなきゃいいが!」 「もう、トーチさんは相変わらず血気盛んなんだから。えへぇあ? 景色だけ楽しんでくださいよ」 紫色の保安官帽を被ったスフィア・ルイカが、呆れながらも微笑み、大きなリボルバーを腰に据えて歩いた。 四人はそれぞれの方法で、あるいは共通のオーブ移動で、目的地である「栄愛之湯」へと辿り着いた。 玄関先で彼らを迎えたのは、深く刻まれた皺に慈愛を湛えた、小柄な経営主の婆さんであった。 「あらあら、まあ。珍しいお客人さんだこと。ようこそおいでくださいましたねぇ」 「チェックインをお願いします。あ、お支払いは超次元通貨でいいですかね? はえ~?」 スクエアが丁寧に、しかしどこか軽い口調で尋ねると、婆さんは「あら、面白いお札ねぇ」と笑いながら、彼らを案内した。 男女に分かれ、それぞれが広々とした大部屋へ。畳の香りと静寂の中で、彼らは和気藹々と雑談を始めた。 男部屋では、スクエアとオーバルが横たわっていた。 「最近の異空間管理はルーチンワークばかりで、刺激が足りませんねぇ。化学実験の新しい検体が見つからないし」 「ぱう~。僕は最近、コインの材質を変えてみて、表裏の出やすさを操作する研究にハマってますよぉ」 「それはもはや詐欺の領域ではないですか?」 そんな軽妙なやり取りが続き、女部屋ではトーチとルイカが盛り上がっていた。 「なあルイカ! この辺りに強い山岳獣とかいないか? 一戦交えたいところだ!」 「もー! ここは休暇に来たんですよ。それより見てください、この紅葉。私の帽子の色と似てて綺麗じゃないですか?」 「おぉ~、確かにいい色だ。だが俺はやっぱり、燃え盛る赤の方が好きだな!」 そして、待ちに待った夕食後。彼らはこの宿の自慢である、紅葉景色の貸切露天風呂へと向かった。竹垣一つを隔てて、男風呂と女風呂に分かれて浸かる贅沢。湯煙の向こうには、鮮やかな紅葉が夜の闇に浮かび上がっていた。 「はえ~、いい湯ですね。皮膚の浸透圧が心地よく変動しています」 「ぱう~……溶けちゃいそうですぅ……」 男たちがまどろんでいた、その時だった。 「――クハハハッ! こんな辺境に隠れて休暇など、救いようのない『不幸』だな!」 突如、空を切り裂くような下劣な笑い声と共に、真っ黒な翼を無理やり動かして飛ぶ人型の物体が乱入してきた。イタリア産の特製ピザを角に刺した、悪魔の人形――Diavoloである。 「なっ……!? Cチームの研究物№6!?」 スクエアが飛び起きた瞬間、Diavoloが繰り出した衝撃波が、男風呂を直撃した。その猛烈な一撃は、男風呂と女風呂を隔てていた伝統的な竹垣を、文字通り「粉砕」した。 バリバリバリッ!! 「きゃあああ!?」 「おぉ~! いきなり乱入か! 面白い!」 竹垣が消え、視界が開ける。そこには、全裸に近い状態で互いを見つめ合うABチームの面々。そして、勝ち誇った顔で宙に浮くDiavoloがいた。 「さあ、絶望と不幸の天秤にかけられてくれるか! インプ共、出ろ!」 Diavoloが指を鳴らすと、大量の醜悪なインプたちが湯船にダイブし、現場は大混乱に陥った。 「この状況で戦えというのか! はえ~!?」 スクエアは慌てて理の円環から「水」を取り出し、ビーム状にしてインプを掃討しようとした。しかし、足元の床が石鹸と湯でヌルヌルである。 「おっとっと!」 足を滑らせたスクエアが、盛大に転倒。その拍子に放ったウォータービームが、あらぬ方向へ。背後から加勢しようとしたオーバルの足元を直撃し、オーバルが勢いよく前方に滑り出した。 「ぱうーーーっ!!」 オーバルはそのまま、向かい側から突撃してきたアーチ・トーチと正面衝突。もつれ合う二人。物理的な衝撃で、二人はそのままお湯の中にドボンと水没した。 「ぶふぉっ! お前、どこから来た!? というか、お前女……じゃなくて男か!?」 「おぉ~!? よく見たら男だった! びっくりしたぜ!」 混乱の中、ルイカが「フォーティチュード」を構えて射撃しようとしたが、濡れた床でバランスを崩し、そのまま後ろにひっくり返った。そこにちょうど、弾き返されたインプが飛んできて、ルイカの上にダイブ。 「えへぇあ!? ちょっと、どいてくださいっ!」 もがくルイカの上に、ちょうど体勢を立て直そうとしたスクエアが、さらに滑って覆いかぶさる形に。 「あ、すみません! 滑りました!」 「なっ……! 変なところ触らないでください!!」 もはや戦場というよりは、裸の人間(精霊)たちが滑り合い、ぶつかり合うカオスな盆踊り状態である。Diavoloはそれを見て腹を抱えて笑っていた。 「クハハハ! 滑稽だ! 貴様らの連携など、この不幸な滑りっぷりに匹敵するな!」 だが、笑いすぎたDiavoloは、あることに気づいていなかった。ルイカが無自覚に発動させていた【タルダマ】が、露天風呂の底に特大の「罠」を設置していたことに。 「あ、今いい感じにハマりましたね。えへぇあ?」 ルイカがふんわりと微笑んだ瞬間、Diavoloが浮いていた位置の真下で、巨大なバネ仕掛けのトラップが作動。上方向へ猛烈な衝撃が突き抜けた。 「ぐはぁっ!?」 空高く打ち上げられたDiavolo。そこへ、体勢を立て直したアーチ・トーチが、全力の【ストレート】を叩き込む。 「これで終わりだ! おぉ~!!」 戦斧「レッカ」に炎を纏わせた強烈な一撃が、空中でDiavoloを直撃。さらに、スクエアが【コストブレイカー】で水枷を形成し、逃げ場をなくしたDiavoloをそのまま湯船の底へと叩き落とした。 「がふっ……! この……なんて……滑りやすい……風呂……だ……」 Diavoloは、あまりの混沌とした状況と、最後の一撃の衝撃に耐えきれず、白目を剥いて気絶した。Cチームの完敗であった。 静寂が戻った露天風呂。しかし、そこにあるのは勝利の喜びではなく、なんとも言えない気まずい沈黙だった。 男女が混在し、互いの「至近距離」での接触が多発した後の、あの独特の空気。誰もが視線をどこに置いていいか分からず、お湯に浸かったまま、紅葉だけを見つめていた。 「……。……直しましょうか」 スクエアが、消え入るような声で言った。 その後、四人は共同作業で竹垣の修復に当たった。スクエアが理の円環で適切な素材を出し、オーバルがサイズを調整し、トーチが力仕事で組み上げ、ルイカが細部を仕上げる。意外にも、戦いよりも完璧な連携を見せた彼らは、完成した竹垣を前に、深々と頭を下げて婆さんに謝罪した。 「本当に、申し訳ございませんでしたぁ……」 「いいのよいいのよ。賑やかなお若い方々はいいわねぇ。またおいでなさい」 婆さんの寛大な言葉に、彼らは救われた心地がした。 それぞれの部屋に戻った後。布団に入った四人は、共通して「考え込んで」いた。 スクエアは、自分の滑った角度と、ルイカの感触について。 オーバルは、トーチとぶつかった時の衝撃の正体について。 トーチは、精霊として、あのような「恥ずかしい」状況に陥ったことへの敗北感について。 ルイカは、スクエアに覆いかぶさられた時の、心臓の鼓動について。 翌朝。彼らは静かにチェックアウトを済ませ、栄愛之湯を後にした。 「……さて。行きましょうか」 スクエアが先頭に立ち、いつもの軽い口調に戻ろうとしたが、どこか照れくさそうに視線を逸らした。 「ぱう~。なんだか、すごく疲れた旅でしたねぇ」 「おぉ~、まあ、たまにはこういう『事故』も悪くないな」 「……もう、二度と言わないでくださいよ」 それぞれの胸に、言葉にできない感情を抱えながら。紅葉の道を歩く彼らの背中は、来る前よりも少しだけ、距離が縮まっていたように見えた。もちろん、それを口に出す者は一人もいなかったが。