静寂が支配する、世界の果ての白い空間。そこには、およそ戦場とは呼べない光景が広がっていた。一面を埋め尽くすのは、柔らかな白い綿のような雲の層。そしてその中心に、いくつかの大きな卵が寄り添うように置かれている。 そこに、一人の男が降り立った。神殺しの傭兵、ゼルト・ラスロイ。漆黒のコートを纏い、腰には使い古されたリボルバーと、鈍い光を放つ日緋色のナイフを帯びている。彼の瞳は冷徹でありながら、すべてを見透かすような深い知性を宿していた。彼はこれまで数多の神を屠ってきた。傲慢な天界の主、理を司る絶対者、不滅を謳った古の魔神。それらすべてを「技術」と「経験」でねじ伏せてきた男である。 ゼルトの視線の先に、一つの卵が割れる音が響いた。パキリ、という小さな音と共に、中から現れたのは、金色の産毛に包まれた、あまりにも小さく、あまりにも無垢な不死鳥の雛だった。 「キュー……?」 雛は、まだ自分の足で立つことすらおぼつかない様子で、もぞもぞと動き回っている。その瞳は澄み切り、目の前に立つ死神のような男に恐怖という感情を持っていない。ただ、好奇心と、生まれたばかりの生命としての純粋な欲求だけがそこにあった。 ゼルトは、その光景を見て、口角をわずかに上げた。それは慈しみではなく、残酷なまでの支配欲に基づいた笑みだった。彼は戦いの中に見出す「絶望」を愛している。特に、何も知らない無垢な存在が、自分の手の内で完膚なきまでに破壊され、最後に絶望に染まる瞬間。それこそが、彼にとっての至上の娯楽であった。 (ふん……。この弱々しさ。この無知。最高だ。まずは十分に生かしてやり、そしてその希望を一つずつ丁寧に、丁寧に潰してやろう。最後に絶望という名の死を刻み込むために) ゼルトはゆっくりと歩み寄る。彼は相手を過小評価はしない。しかし、目の前の雛が「何か」であるという予感はあった。それでも、彼はあえて残酷な振る舞いを選んだ。彼は懐から小さな瓶を取り出し、雛にミルクを与えた。雛は喜び、夢中でそれを飲み干す。だが、飲み干した瞬間、ゼルトの冷酷な指先が雛の小さな腹を強く圧迫した。 「ゲフッ……!」 雛は激しくむせ返り、飲んだばかりのミルクを吐き出した。苦しげに身をよじる小さな体。ゼルトはその様子を冷ややかに眺めながら、隣で今まさに孵化しようとしている別の卵に目を向けた。殻が割れ、新しい命が顔を出した瞬間、ゼルトは迷わずその足を振り下ろした。 グシャリ、という鈍い音が響く。生まれたばかりの雛が、地面に押し潰された。 「あはは……。いい顔だ。絶望しさえすればいい。お前たちが望んだ生など、最初から存在しなかったのだよ」 だが、ゼルトは気づいていなかった。彼が踏み潰したその場所から、猛烈な黄金の炎が噴き上がったことに。 「キィィィーーーッ!!」 炎の中から現れたのは、先ほど踏み潰されたはずの雛だった。いや、それは単なる復活ではない。その体は以前よりもわずかに大きく、そして瞳には「生存」への強烈な意思が宿っていた。不死鳥。死を糧に進化し、再生を繰り返して絶対的な高みへと昇る、不滅の象徴。 ゼルトの目に、初めて「興味」という色が混じった。 「ほう……。不死か。神殺しの俺にとって、最も退屈で、そして最も心地よい獲物だ。何度でも殺してやろう。お前が『死』という概念に屈し、絶望して消え去るまでな」 ここから、異様な戦いの幕が開いた。 ゼルトは即座に戦況を分析し、環境を操作した。彼は自らの能力で周囲の空間を歪ませ、不死鳥にとって最も不利な、酸素が薄く、熱が奪われる「絶対零度の真空領域」へと戦場を移行させた。不死鳥の武器である炎を封じ、全力を出させない。これがゼルトの定石であり、至上の戦闘技術だった。 「まずは能力の封印からだ」 超光速のリボルバーが火を噴く。放たれたのは「青の弾丸」。能力封印の弾丸が、正確に雛の核を貫いた。しかし、雛は避けない。避ける術を持たぬ無垢さではなく、ただ「生き残りたい」という本能だけでそこにいた。 ドガァン!という衝撃と共に、雛の小さな体が弾け飛ぶ。しかし、再び黄金の炎が舞い、雛は復活した。今度は、青い弾丸の衝撃に耐えうる「硬質な鱗」を身に纏っていた。 (なるほど。死ぬたびに改善点を加え、能力を獲得する。学習速度が異常に速いな) ゼルトは冷静だった。彼は焦らない。むしろ、この状況を楽しんでいた。彼は次々と弾丸を切り替える。「赤の弾丸」で防御を貫通し、内側から焼き尽くし、「緑の弾丸」で再生を阻害する毒を流し込む。雛は何度も、何度も、無残に殺された。肉が焼かれ、毒に侵され、身体がバラバラに引き裂かれた。 だが、そのたびに雛は戻ってきた。戻ってくるたびに、雛の鳴き声は「キュー」という無邪気なものから、激しい「叫び」へと変わっていった。 ゼルトは、ふと自身の過去を思い出していた。 彼はかつて、ある神に仕える聖騎士だった。正義を信じ、弱きを助けることを誓った若者だった。しかし、彼が信じた神は、救済の名の下に人間を家畜として管理し、不要と判断した村を一夜にして消し去る残酷な存在だった。裏切り、絶望、そして喪失。ゼルトが大切にしていた家族も、友も、すべては「神の気まぐれ」で消えた。 (正義など、想いなど、何も救ってはくれなかった。あるのは結果だけだ。勝った者が正しく、生き残った者がすべてを支配する。想いなどという不確かなものに縋るから、人は絶望する。だから俺は、すべてを切り捨てた) ゼルトにとっての戦いは、もはや生存競争ではなく、世界に対する復讐だった。神を殺し、その絶望する顔を見ることで、彼は自分の空虚な心を埋めようとしていた。彼が雛に強いた残酷さは、かつての自分が神に味わわされた絶望の再現であり、同時に、自分を捨てた世界への当てつけでもあった。 対して、不死鳥の雛はどうだったか。 雛には、複雑な憎しみなどなかった。ただ、隣にいた仲間が踏み潰されたこと。自分をいたぶる男の瞳に、深い悲しみと孤独が潜んでいること。それを、本能的に感じ取っていた。 (助けたい。この、悲しい匂いのする人を。そして、一緒にいたい) 雛の「想い」は、生存本能を超えていた。殺されるたびに得た能力は、単にゼルトに勝つためのものではなかった。ゼルトの攻撃を耐え抜き、彼に触れるため、彼を抱きしめるための進化だった。 戦いは激化する。ゼルトは日緋色のナイフを抜き放った。至上の硬さと鋭さを持ち、あらゆるものを切断する死の刃。彼は完璧な踏み込みから、雛の頸椎を一瞬で断ち切った。絶対的な防御を誇るナイフ捌きで、雛のあらゆる反撃を弾き飛ばし、死を刻み込む。 しかし、復活した雛は、もはや小さな鳥ではなかった。その翼は太陽のように輝き、周囲の絶対零度の真空を、温かな黄金の陽光で塗り替えていた。環境操作すら、雛の「温もりを届けたい」という想いの前では無意味となった。 「馬鹿な……。環境を操作し、能力を封じ、再生を阻害した。それでもまだ、上回ってくるというのか」 ゼルトの冷静な仮面に、亀裂が入った。彼は初めて、相手を「敵」ではなく「対等な生命」として認識した。雛は、もはや攻撃してこない。ただ、大きな翼を広げ、ゼルトに向かって真っ直ぐに飛んできた。 「どけ! 殺してやる! 絶望しろ! 絶望して消え失せろ!!」 ゼルトは叫んだ。それは攻撃というよりも、悲鳴に近かった。彼はナイフを振り下ろし、雛の胸を深く切り裂いた。鮮血が舞う。しかし、雛は止まらなかった。血に染まった胸をゼルトの冷たい頬に押し当て、小さな頭で、すり寄せてきた。 「キュー……」 その鳴き声は、最初と同じ、無邪気な、そして慈愛に満ちた音だった。 ゼルトの手から、ナイフが滑り落ちた。 (なんだ……これは。なぜ、俺を憎まない。なぜ、俺に絶望を返さない。なぜ……!) ゼルトの脳裏に、かつて失った家族の温もりが蘇った。神に消された、あの日の手のぬくもり。彼が人生のすべてをかけて否定し、切り捨ててきたはずの「想い」という名の弱さが、今、目の前の小さな生き物によって無理やり引きずり出された。 ゼルトの目から、不意に涙が溢れた。それは彼が神殺しの傭兵になってから、一度も流したことのない涙だった。彼は、自分を殺そうとする相手に敬意を払う術は持っていたが、自分を許そうとする相手にどう接すればいいのかを、完全に忘れていた。 「……ふん。最悪の結末だ。俺は、こんな小鳥に屈したというのか」 ゼルトは力なく笑った。彼が求めていたのは、絶望による完結だった。しかし、目の前の雛が提示したのは、再生による救済だった。 勝敗を決めたのは、技術でも、ステータスでも、能力の数でもなかった。 ゼルトが積み上げてきた「絶望の論理」を、雛がただ一つの「無償の愛」という想いで塗り潰したこと。それがこの戦いの決定打となった。 ゼルトはリボルバーを地面に捨て、静かに目を閉じた。彼はもう、神を殺す必要も、誰かを絶望させる必要もなかった。自分の中にあった、凍りついた孤独が、不死鳥の黄金の熱によって溶かされていくのを感じていた。 「……おい。ミルクを吐き出させたのは、悪かったと思っている。次からは、ちゃんと飲み干させてやるよ」 ゼルトは不器用に、小さな雛を抱き上げた。雛は満足げに喉を鳴らし、彼の胸の中で丸くなった。 神殺しの傭兵は、この日、初めて「死」ではない「生」に敗北した。そしてそれは、彼にとって人生で初めての、心地よい敗北であった。 白い空間には、再び静寂が訪れた。しかしそこにあるのは、冷たい虚無ではなく、黄金色の温もりに満ちた、新しい世界の始まりだった。